第五章   狩野遥馬2

   ※   ※   ※


 ある日、夕方になっても理央が学校から帰ってこなかった。遥馬は嫌な予感がした。

 日付が変わる頃になってやっと帰ってきた理央は、まるで酔っているようにうかれていた。いや、本当はうかれているフリでもしなくては、自分が保っていられなかったのかもしれない。

「遥馬、お小遣いあげる」

 小さなハンドバッグから封筒を出すと、そこから一枚紙幣を出して、アパートの玄関に立った遥馬の鼻先につきつけた。一万円札だった。

「姉ちゃん、これ……」

「遠慮しないで。私ももう服買っちゃったから」

 理央は体のラインもあらわなニットワンピースを着ていた。ミニ丈で首回りはゆるいタートルネックになっている。ほっそりした理央の肢体は、雑誌のモデルそのままのようだ。なんとなく遥馬は事情を察した。

「来週も同じ額あげる。いや、もっと稼げるかも。これからは我慢しなくていいよ。携帯電話の契約もできるかもね。あ、未成年だからそれはダメかー」

 けらけらと理央は笑う。

「何? 何やらかしてきたんだよ」

「ちょっと、お仕事してきたんだ。紹介してくれる子がいてさ」

 遥馬は怒鳴りつけたいのをこらえて、理央を台所の椅子に座らせ、「お仕事」の内容を聞き出した。

 四畳ほどの台所には作業台代わりの細長いテーブルがあり、折りたたみ椅子を置いていた。遥馬はコップに水をくんで置いてやる。理央は少し酒の匂いがした。

「同伴者派遣ビジネスっていうの? ほら、友達の代わりに一緒に遊園地行ってあげたり、彼女の代わりに食事につきあってあげたりするやつだよ」

「それってデートクラブってことだろ?」

「ううん。ホテルには行かないよ。そういう規約になってるし。あくまで飲食店止まり。あのね、そういう職域に手を出すと、怖いおじさんたちの縄張りとかあって、いろいろ大変らしいよ」

 姉は、自分を子供だと思っているのだろうか。

「それだけでそんな稼げるわけがないだろ」

 理央は言いたくなさそうに、しばらくあちこちに視線を飛ばしていたが、やがて口を開いた。

「あのね。一番稼げる行き先はハプニングバーなの。バーにつきあう分は前金で。そこからあとはオプションで」

「なんだそれ」

「バーの中は衆人環視だし。基本的に同意の行為しか認められてないから、嫌がってるのに余計なことされることはないし。盗撮はお店側が禁止してるし。フロアが盛り上がれば、バーのほうから内緒でチップもらえることもあるし。むしろ、密室でサービスするようなお仕事なんかよりずっと安全なんだよ」

 遥馬はしばらく憤怒をおさえるのに格闘していたが、なんとか感情を抑えこんで、長いため息をついた。

 プライドとか、尊厳とか、今まで大事に抱えてきたそういったものが、バラバラとめっきのように剥がれ落ちていきそうなため息だった。もはや悪びれた様子もない理央を見て、自問する。

(姉貴がこうなったのは誰が悪い? 俺か?)

 胃の中が煮えるような怒りはたぶん、自分の無力に対してだった。

 未熟で愚かで何もできない。何もわかっていない。

 理央だって、とっくに限界だったのだ。崖っぷちの前に立って、自分が落ちるであろう暗い崖下をのぞいていた。それでも後ろに遥馬がいたから。守らなければならない存在がいたから。自分がここで持ちこたえなくてはいけないんだと、必死で自分を鼓舞していたのだ。

 その姉を崖っぷちから突き落としたのは、誰でもない遥馬だった。自分がすてばちな態度で学業も放り出し、理央の忍耐をたちきってしまったのだ。

 十五歳と十四歳で。手を握りあって、守りあわなくてはいけなかった。それなのに、どうして自分は、みずからを切り売りするような仕事から、姉を守ってやれなかったのだろう。

 理央は長い長いシャワーを浴びたあと、疲れたのかすぐに布団を敷いて横になった。

 遥馬と理央は幼い時から和室で寝起きしていた。アパートにはキッチンと畳のはがれかけた和室、あとは狭い洋室が一部屋あるだけだ。洋室のほうは嫁入り道具だったという母の衣装ダンスとドレッサーで占領されていた。

 足先の出る子供用の布団の中で、遥馬が眠れずに展転していると、理央が手を伸ばしてとなりの布団にいる遥馬の手を探りあててきた。

 きゅっと握りこまれた。少し汗ばんだ手の平は、懐かしい感触だった。

「ねえ」

 暗い部屋の中で姉の声がした。

「私たちがもっと可愛い子供だったら、父さんは真面目に働いて家に帰ってきてくれたのかな。母さんも、変な宗教に入れあげたりしなかったのかな」

 姉の声はかすれていた。

「私たちが悪かったのかな。私たちが両親の期待に応えられるようないい子じゃなかったから、こうなっちゃったのかな」

「姉貴」

 遥馬は理央の声をさえぎった。

 卑屈な思考だが、そう思うことでしか運命を受け入れることができない理央の気持ちは、遥馬も痛いほどわかっていた。

(私、生きていけなくなるのが怖いよ)

 姉の手は、世の中の不条理に脅えているように感じた。

 遥馬は言葉もなくそれを握りかえすことしかできなかった。

(……俺も怖いよ)

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