GIVER
沢村基
第一章 実験庭園へようこそ1
昼休み、私立海浜学園高校の食堂では、あちこちで空席の争奪戦がくり広げられていた。
葉月一爽(はづきいっそう)は空いていたテーブルに、手に持っていた教科書を投げた。ふたりがけのテーブルに、ばさっ、と音楽の教科書と楽譜のファイルが広がる。
いましもその席を取ろうとしていた女子生徒のふたり連れが、目の前で席を奪われ、あーあ、と落胆まじりに一爽をにらみつけた。
「お先ー」
悪びれずに言って、一爽はさっとテーブルに近寄って椅子を引いた。
「お前、またそういう強引なことして」
ひきあげていく女子たちに申し訳なさそうな視線を送り、片手をあげて謝ったのは友人の永友優吾(ながともゆうご)だ。学級委員でクラスの人望もある優吾は、きちんと周囲を気遣う姿勢を見せる。
「大丈夫。大丈夫。あの子たち、たいして怒ってないって」
「俺がフォローしたからだろ」
「周りを気にしすぎなんだよ、優吾は」
一爽は笑いながらブレザーを脱いだ。食堂は熱気に満ちている。ズボンのポケットから二枚の食券を取り出した。
「ほら、見ろよ」
「ああ、幻の中華丼?」
仕入れの都合なのか、人員的な問題なのかはわからないが、この食堂の中華丼は毎月第二火曜日にしかありつけない。しかも十食限定。それを「幻の中華丼」とありがたがって、生徒たちは限りある食券を奪いあう。
「朝一で買っておきました」
得意そうに言う一爽に、「俺の分も? そっか、ありがとな」と優吾は目を細めた。ゆるみなくネクタイを締め、きっちりブレザーを着こんだ端正な姿だ。
一爽は今朝、変な夢を見たせいでいつもより早く目が覚めた。それで学校に着いてから時間に余裕があったのだ。
普段の一爽なら、昼食は好物の「からあげ定食」一択だが、優吾は肉よりシーフードが好きだった。成績のいい優吾には、試験前によく勉強を教わっている。たまにはこういうサプライズ恩返しがあってもいい、そう考えたのだった。
ふたりはカウンターへ中華丼を受け取りに行った。皿の載ったトレイをテーブルに置き、互いに邪魔になった教科書を椅子の背もたれと背中の間にはさむ。
いただきます、と一礼し、一爽はいそいそとレンゲでご飯をすくう。湯気のあがる透明なあんが、海老とサヤエンドウを内包して、とろりと光っていた。
成長期の食欲がしばらくふたりを沈黙にさせた。
はふ、はふ、と口の中から熱を逃がす息を吐きながら、一爽は前のめりになって食事に集中していた。皿を持ち上げて、中華丼の最後のひとすくいを喉に通すと、氷水の入ったコップを一気に氷だけにした。
ふう、と一息ついて椅子の背にもたれると、正面にいる優吾と目が合った。優吾はレンゲを持ったまま、良い姿勢で一爽を見ていた。
(こいつ時々、俺のことをじっと見てるんだよな)
やがて優吾も食べ終えて、紙パックのミルクティにストローを差して飲み始めた。
「そういえばさー。昨日の夕方、学校のそばで発砲事件があったって噂、知ってる?」
一爽が朝、教室でききかじった話だ。
「発砲事件?」
優吾がけげんな顔をした。
「ほら、学校のそばに研究棟のビルがあるじゃん。あそこの渡り廊下、うーんと三階だから空中廊下って言うんだっけ? あそこから銃声がしたっていう話」
「それ、本当かよ」
優吾は軽く笑い飛ばした。トイレに出る幽霊の話でも聞いたような顔だ。
「いや、なんかクラスの女子が騒いでてさ。うちの学校の三年にガタイよくて、すげーモテる先輩いただろ。あの人が昨日の夜から行方不明だっていうんだけど、なんか関係があるのかなって」
話しながら、一爽もずいぶんおかしな話だと思った。ここは徹底的に管理された、安全な学校ではなかったのだろうか。おそらく教室のみんなもそう考えて、不穏な憶測が飛んでいたのだろう。
優吾は思案するように首をかしげた。
「それって……ひょっとして、春待(はるまち)さんのことか?」
今度は一爽がいぶかしむ番だった。
「春待さんって……お前、その三年生と知り合いなの?」
ぴくりと優吾の細い眉が上がる。
「いや……たまたま名前を知ってるだけだよ」
そう言ったきり、優吾はしばらく黙ってしまった。
そして急に、正面にいる一爽に顔を寄せてきた。小声で問いかける。
「変なこときくけどさ。お前、金と友情だったら、どっちをとる?」
「なにそれ? いや、俺は友情をとるよ。だって友情はお金じゃ買えないもんな」
一爽は軽快に答えた。
優吾は眉間のしわを深くした。思いつめた顔をしている。
「じゃあ、たとえばその金で命が買えたらどうだ? 家族の命が買えたら。家族の命と友達とを天秤にかけて、どっちかだったら? お前はどっちをとる? いや、どっちを捨てる?」
「いやいや、どっちも捨てねーよ」
さらっと答えた一爽に、優吾はあきれ顔になった。
「お前、話きいてたか? 前提無視だろ」
「俺は、どっちも捨てない方法を考える」
堂々と答えたあと、一爽は少し不安になって優吾をにらんだ。
「なんだよ、なんで急にそんなこと俺にきくんだよ」
優吾は一爽から視線をそらし、食堂の柱にかかっている時計を見上げた。
「そうだな、あと五分したら、ちゃんと説明するよ」
こわばった顔で答える優吾は、あきらかにいつもとは違う緊張感を漂わせていた。一爽はぬぐいさることのできない違和感を、なんとか笑い飛ばそうとした。
「な、なんかお前、今日変だぞ。勉強で疲れてんだろ」
一爽は中学校から一緒だった親友の顔を、まじまじとみつめる。見慣れた顔なのに、今日だけはまるで別人になってしまったようだ。なにを考えているのか見当もつかない。
優吾の弟は、難病でずっと入院していた。優吾がそつのない優等生としてふるまっているのは、そういう影響もあるのかもしれない、と一爽は思っていた。病弱な弟に優しく接し、親に余計な心配をかけない良い子でいること、それを周囲から求められ、辛抱強い優吾は今までその期待に応えてきたのだろう。
しょっちゅうなにかしでかす一爽を、さりげなくフォローしてくれるのも、そういう過剰な長男気質、責任感のなせる業なのかもしれない、と思う。
一爽はそれをありがたく感じるのと同時に、そんな優吾の生き方が少し痛々しいとも感じていた。もっと人目を気にしないで思いきり笑えばいいのに、ムカついたら怒ればいいのに、時には愚痴や弱音をこぼしてくれればいいのに、と思っていた。
(俺たちの関係はそんなことで変わってしまったりしないのにな)
きまずい沈黙に耐えきれず、一爽は立ちあがった。
「俺も飲み物買ってくるわ」と自動販売機のほうへ歩きだし、「ほんと今日どうしたんだよ」と笑って優吾の肩をぽんと叩いた。
なにを悩んでいるのだろう。自分は優吾の力にはなれないのだろうか。その時はまだそんなことをのんきに思っていた。
数歩歩いてふりかえると、席に残された優吾は何かをじっと見ていた。
トレイの上の何もない空間を、優吾はみつめている。
そういえば以前も、自分が肩を叩いたあとに優吾がそうしていたな、と一爽は思いだした。
厳密には優吾だけではない。自分が体に触れた人間は、ほんの少しの間だが、ぼうっとして考えこむことがある。
なにか特別な仕掛けがあるのだろうかと、一爽は自分の手のひらをながめてみる。が、そこにあるのはなんの変哲もない、しわの多い手のひらだった。
※ ※ ※
横浜の海岸の一区画に人工島がある。本土から離れること約二百メートル。二本の橋が、本土とこの島をつないでいる。
島の外周は約六キロメートル。学園島ハーバーガーデンと呼ばれるこの島は、灌木が多く、四季の花が植えられていて、まさしく庭園のように美しい。この施設の中核部は、私立海浜学園の中学部、高等部とその寮になっていた。
島の北側にある高等部には、近接して五階建ての実験施設があった。ここで生徒たちが本格的な生化学実験を体験できるというのが学園の看板なのだ。まるで大学のような豪華な設備だった。
西南側にある中学部の近くには小規模ながら病院があり、生徒たちの健康管理も万全だ。中学部と高等部のちょうどあいだに、一爽たちの住む学生寮があった。女子寮と男子寮の二棟が並び、ほとんどの生徒たちがここで生活していた。
一爽が初めてこの島へ来たときは、世の中にこんな大規模な教育施設があるのだと驚いた。周囲を海に囲まれた端正な庭園都市は、内部に商業施設もあり、なにも不満は感じなかった。
昼間は、生徒や学校関係者以外の一般人も橋を渡って遊びに来ていた。ピクニックに来る親子連れや、ペットの散歩に来る人々だ。近所にある少し広い公園のような感覚なのだろう。
島の中心には、周囲の海を見渡せる展望台も建設されていたが、当初の想定よりも海風が強かったようで、安全のためずっと閉鎖されていた。
「ここはなによりも、治安がいいのが特徴なの」
母親は、中学生の一爽にそう説明した。学校関係者以外が島に入るときは、全員身分証明の提示を求められ、生徒の出入りもそれぞれのもっているタブレット端末のIDで管理されていた。二本の橋を渡らなくては入れない島だからこそ、そういう治安が維持できるということだった。
「最近は子供を狙った犯罪が多いからね。せめて高校三年間だけでも安全なところでのびのび過ごしてくれたら、私たちも安心なのよ」
一爽は、そんな母の意見に懐疑的だった。中学三年の時点で、自分の身長はもう父親を追い越そうとしていた。幼児の頃ならともかく、成長した今になって両親は手厚い安全を求めるのだろうか。
「授業も少人数制だし。普通の高校ではできないような海洋生物の観察や、専門的な実験もあるそうだから」
父はそう言った。かといって、一爽はとくに理科に興味があるわけではなかった。というより、今まで勉強そのものにそれほど情熱を持ってこなかった。ひょっとすると、父はそんな一爽に学びの楽しさを教えたかったのかもしれない。
無事進学が決まり、海浜学園の寮に一爽を送りとどけて帰っていくとき、両親はまるで今生の別れのように、ぎゅっと一爽の手を握った。
「困ったことがあったら、すぐ連絡してね」
「必ず迎えにいくからな」
一爽は大げさだな、と半分あきれていた。
そもそもこの学校を薦めてきたのは両親なのに。土壇場になって急に息子のことが心配になったのだろうか、と半分照れ臭いような気持ちで考えていた。
あれから一年が経ち、一爽は高校二年生になっていた。
※ ※ ※
そろそろ昼休みが終わる時間だった。
時計を見た一爽は、結局自動販売機の前で何も買わずに、優吾のいるテーブルに戻ってきた。
「五限、現代文? 漢字テストだっけ?」
「やべ。なんもしてね」
「ごちそうさまでーす」
一爽と優吾はそれぞれのトレイを持って立ち、返却口に置いた。ふたりが出口に向かって歩き始めた時、突然食堂のあちこちで一斉に電子音が鳴った。同時に、視界にいる全ての生徒たちの動きが、ストップモーションのようにかたまった。
食堂にいる生徒全員の携帯タブレットが、サイレンのようなアラート音を鳴らしたのだ。
動揺が目に見えない電気信号のように食堂の中をはしりめぐった。二、三秒後、かたまっていた生徒たちが再び動きだした。おのおの自分のタブレットを手に取って、アラートの内容を確認している。携帯端末として使える小型タブレットは、生徒全員に学校から支給されているものだ。
「避難勧告だ。津波警報だって」
「え? 今かよ?」
一爽も、あわてて自分のブレザーのポケットを探った。
「津波が来るの?」
「やば」
「いや、ハーバーガーデンへの到達予想時刻は十四時前後らしい。北マリアナ諸島沖でマグニチュード7を超える地震があったって」
「まじか」
周囲がざわざわし始める。まだ見えないとわかっていながら、何人かは、海岸が近い北側の窓をきょろきょろとみつめていた。
食堂のドアが開き、体育科の男性教師が息をきらしながら入ってきた。一度大きくせきこんでから、声をはりあげる。
「みんな、あわてなくていいぞ。このあとクラス単位で避難が始まるから、一度教室に戻れ」
生徒たちは緊迫した面持ちできいている。男性教師は唾を飛ばしながら続けた。
「これから各クラス、担任の指示で本土へ避難する。本土の避難場所に全員で移動してから保護者への引き渡しを行う。すでに保護者にはメールで一斉連絡が入ってるから、心配するな」
一時のざわめきは収まり、生徒たちはひそひそと小声で話しながら、食堂の出口に向かって歩きはじめた。
一爽も移動する生徒の列に入って教室に戻ろうと、出口のほうへ向かって歩きだした。その腕を優吾がつかんで引きとめた。強い力だった。
一爽がわきに挟んでいた教科書が、ばらばらと食堂の床に散らばった。
「優吾?」
「一爽、約束の五分後だ。十二時五十分、葉月一爽への情報解禁。お前はこの島から逃げられない」
一爽は驚いた。優吾はこうなることを知っていたのだろうか。アラートが鳴り、全校生徒の避難が始まることを。
「お、お前、超能力者だったのか」
「違う。このアラートはフェイクだ。実際には地震もないし、津波も来ない。無関係の生徒を島外に避難させるための方便だ」
優吾はブレザーの一番上のボタンをはずし、内側に右手を入れた。正面にいる一爽にだけ見えるよう、ブレザーのあわせの内側から得物をちらりとみせた。握りこまれていたのは、艶消しの小さな拳銃だった。
思わず息をつめた一爽に、優吾は微笑んだ。学級委員の穏やかな笑顔だ。
「心配するな。二十二口径に大した殺傷能力はない。それでもお前の足止めするくらいはできる。抵抗しないで俺についてきてくれ。今からお前を拘束する」
「お前、それ、本物だったら銃刀法違反だろっ」
「残念だが、ここは本土じゃない。法治外の実験島だからな」
「実験、島?」
あとは歩きながら話そう、と優吾は拳銃を持った手をブレザーの内側にしまい、一爽を促した。
優吾はブレザーの内側にガンホルダーを装着していたようだ。だからさっきまで、暑くても上着を脱ごうとしなかったのだ。もちろん一爽は、今まで優吾がこんなものを身に着けているのを見たことはない。今日だけ特別に装備してきたということだろうか。
「さっき約束したからな。もう少し説明しよう」
拳銃を持っていないほうの手で一爽の肘をひっぱりながら、優吾は歩き出した。
食堂の入り口を出て密着して歩くふたりの様子を、女子生徒がひとり、不思議そうにながめながら駆け抜けていった。
その子のプリーツスカートがふわっと膨らむのを見たとき、一爽は明け方見た夢のことを思いだした。
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