第六章   僕らの船1

 ゆらめく陽炎の中に、はじめはいた。

 左右には欅の並木。もう先端の小枝は焦げていた。

 たちのぼる熱風で木の葉はゆらゆら揺れている。

 遊歩道は、地面のタイルがひび割れていた。その上を少年は裸足で歩いて行く。

(もう病院にも戻れない。文香先生のところにも。優吾お兄ちゃんのところにも。真尋お姉ちゃんのところにも)

 ただただ、全てを燃やして終わるしかない。

 みんなのしあわせのために。

 もう衣服も半分ほど周囲の熱に燃え落ちてしまった。片手には灼熱の火花を放つ銀色の棒があった。カエルの傘の支柱だけが残ったものだった。これだけは手放せなかった。自由に歩き、アイスを食べた楽しい日。その名残だ。

 はじめは咳きこんだ。喉は煙と異臭でイガイガしたが、体の表面はケガもなく、熱も火傷の痛さも感じなかった。

(……やっぱり僕は普通の人間じゃなかったんだ)

 あきらめに似た気持ちで考えた。

 誰かの声がきこえたような気がして振り返った。

 住人の避難は終わっている、と優吾は言っていた。

 誰もいるはずはない。自分と戦う武装隊の人とプラチナベビーズ以外は。

 遊歩道の脇にある建物の一階部分は、窓ガラスが割れて炎を放っていた。さっきから火災用の緊急サイレンが鳴り響いている。

 ふと黒煙がうずをあげて上がる上空を見上げた。酸素が薄くなっている。はじめは浅い呼吸をくりかえしていた。

(ああ、息ができない。このまま死ぬのかな。早く僕を殺す人たちが来てくれないと、僕、もう疲れちゃうよ)

「……なにがしあわせかわからないのです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」

 自分を励ますように心の中で唱える。

 大好きな「銀河鉄道の夜」の一節だ。この言葉を思い出すと、心の中が透きとおるような気がする。自分がせがむと何度でもこの本を読んでくれた優吾の声がきこえる気がする。

(ほんとうの幸福は、誰かを幸せにできることだ。きっとそうだ)

 はじめは思った。

(優吾お兄ちゃんは病気の弟を助けられるかな。真尋お姉ちゃんは好きな人に会えたかな。最後まで燃え続ければ、お母さんは天国で僕をほめてくれるかな。ああそれより、どうして僕は生まれてきちゃったのかな)

 ひとりぼっちで寂しく笑った。

(その答えを、やっとつかめそうなんだ。僕にできることがみつかったんだ)

 病院を抜け出して海岸にそって道路を歩いている時、優吾とかわした言葉を思い出した。はじめの能力のことを、優吾はこう話していた。

『君は特別なんだ。その力は神様がはじめくんだけにくれた、才能とか個性みたいなものなんだ。だから、お兄ちゃんにはその力の使い方がわからない。でも、はじめくんはきっとうまく使いこなせると思う。みんなの役に立つように』

『みんなの役に立つように?』

『そう。それがとっても大事なんだ。そうすればはじめくんはみんなに必要とされて生きていけるから』

(優吾お兄ちゃんはそう言ってた。でももう僕には、誰かに大事にしてもらえるような人生なんて残ってない。死んだあとで、誰かが僕を惜しんで泣いてくれるってことなのかな。そのためにみんな生きているのかな。それが生きるってことなのかな)

 どしゃっ。

 すさまじい音がして、はじめはびくっと肩をすくめた。

 三階建ての建物のすぐ前に、真っ白な蒸気の柱が立っていた。シューシューいう音とともに、白煙が足元に広がっていく。

 あわててあたりをみまわすと、屋上に人影が見えた。

 ぴったりとした防護服に身を包んだ髪の長い少女が、ビルの給水タンクを持ち上げていた。自分の身長のゆうに二倍はありそうな四角いタンクだ。

 オフホワイトに塗装されたタンクは、丸い蓋が開いていた。あれから水をぶちまけたのだ。

 彼女の後ろにはジャングルジムのようなの高架台の残骸があった。フェンスにひっかかったパイプの断面からは、ちょろちょろと水が流れ落ちている。

 少女は持ち上げていたタンクを慎重にかかえなおすと、「よっこいしょ」というかけ声とともにさらにかたむけた。

 じゅ、じゅわっ、じゅ。

 道をなめていた炎が消えて、はじめのところまで白い蒸気の道ができた。少女はタンクを屋上に捨てて、三階建ての屋上からいきなり飛び降りてきた。一度一階の部屋のひさしに着地して、落下速度を落とし、地面に下り立った。

 こちらに歩いてくる。

 はじめは身構えた。急に殴られたような痛みが頭にはしった。酸欠による頭痛だ。よろめいて両膝をついたはじめに、少女は駆け寄ってきた。

「ほら、頭を低くして、ゆっくり息して」

 肩に手をかけて顔を起こされた。彼女にうながされて、はじめは何度か深呼吸をくりかえした。しだいに視界が鮮明になってきた。

「君、宇都木はじめくんでしょ。私は狩野理央って言うんだ」

 少女はにっこりと微笑んだ。不思議な格好をしていた。つるつるしたラバースーツだ。

「お姉さんは、ここが暑く……ないの?」

「暑いよ。暑いけど、私の体は、このくらいなら平気なんだ」

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