第2話 伏線 2
学校から帰るとき、圭祐は生きた心地がしなかった。
怪異がいた校庭には、怪異がいた痕跡はなかった。
それなのに、誰かの視線をずっと感じていた。
「あ、おかえり」
家に入ると、リビングでスマホをいじっている母親が声をかけてきた。
「ああ…」
圭祐は曖昧に応える。
ちらりと母親のスマホを見る。ゲームの画面だった。
母親はスマホ依存症なのだ。常にスマホを触っている。
同じ部屋にいるのに、会話はほとんどない。
「あ」
ふいに高い声が聞こえた。
タンクトップにミニスカートを穿いた妹の姿があった。
妹は圭祐の姿に確実に気づいていたが、そのまま冷蔵庫を開けて中を物色しはじめた。
(あ、ってなんだよ)
妹は母親以上に圭祐を空気扱いしていた。
挨拶どころか目を合わせようともしない。
昔は一緒に遊んだりしていたはずなのに、今は同じ家に住む他人だった。
しかも最近は、ますますギャル化が進んでいる。
陰キャの自分と本当に血がつながっているのかと疑うくらい、性格が真逆だった。
だからといって、よく喧嘩するわけでもない。
互いに異邦人過ぎて、衝突すら起こらないのだ。
そのくせ互いに互いを見下していることは、言わなくとも理解していた。
圭祐はため息をついて、リビングの脇にある自分の部屋へ向かった。
ドアノブに手をかける。
違和感があった。
ぬるりとした感触。
水で濡れたよりも粘度の強い、気持ちの悪い感触。
まるでゴキブリを素足で踏んだときの、あのヌメリにそっくりだった。
血がべっとりと付いていた。
「うわあああああああああ!!」
「どうしたの!?」
母親が驚いたように訊いてきた。
妹すら何事かと様子をうかがっている。
圭祐は改めて自分の手を見た。
血は消えていた。
「いや、なんでもないよ…」
夜のゴミ出しは圭祐の仕事だった。
一般的にはゴミ出しは朝に実施する地域が多いが、圭祐の住んでいる地域は、夜にゴミを収集する。
アパートを出て、50メートルほど先の収集場所へゴミ袋を出しにいくのだ。
階段を降りて、外に出るまでは普通だった。
昼間の怪異の件も忘れてかけていた。
いや、正確には、忘れようとした努力の結果だ。
だが─
嫌な気配がした。
見知った風景なのに、どこか異世界に迷い込んだかのような違和感がある。
急に怖気づいてしまった。
そんな表現がぴったりかもしれない。
だが、唐突にそうなってしまった原因は圭祐にも分からなかった。
あたりは暗闇。月の姿はなく、星の瞬きも、いつもより少ない気がする。
人の気配も車の気配もなかった。
粘りつくような暗闇だけがあった。
戻ろうか?
一瞬そう思ったが、収集場所までわずかな距離だ。
それにゴミ袋を家に持ち帰って、なんと言う?
恐怖心よりも羞恥心のほうが勝った。
速足で暗闇の中を歩く。
速く歩けば歩くほど、背後の闇が押し迫ってくるようで、生きた心地がしなかった。
収集所のドアを開け、ゴミ袋を放り込む。
あとは戻るだけだ。
そう思った瞬間だった。
人通りのない民家の路地。
街灯が淡く照らす道の向こうに、そいつがいた。
ノースリーブに短パンの怪異。
今は麦わら帽子を被っておらず、おかっぱ頭をさらけ出している。
真っ赤な血で描いたような笑顔が、じっとこちらを見ていた。
しかもデカい。
そいつが、くねくねしながら歩いてきた。
ヒタヒタ、という奇妙な音が響いてくる。
「うわぁ!」
圭祐は小さく悲鳴を漏らした。
いきなり冷たいプールに飛び込んだかのように、心臓が引き絞られる。
圭祐はダッシュで家に向かった。
ヒタヒタヒタヒタヒタ!!
途端に、足音が速くなった。
逃げている圭祐に怪異の姿を見る余裕はなかったが、その足音から、奴が走ってきている不気味な姿が容易に想像できた。
「走ってくんなよ!」
圭祐は思わず叫んでいた。
奴に掴まったらどうなるのか?
想像すらしたくない。
左に曲がり、アパートの階段に足をかける。
階段に飛びこむ際、一瞬だけ怪異のほうを見ることができた。
怪異は両手を地面につけ、四本足のケモノのような姿で、追いかけて来ていた。
もの凄いスピードだった。
一瞬でも止まれば、すぐに追いつかれてしまうだろう。
恐怖で心臓が悲鳴をあげた。
圭祐は叫ぶ暇も惜しんで必死に階段を駆け上り、自分の家へと戻った。
激しくドアを閉め、急いで鍵をかけ、いつもはしないチェーンまでかけた。
「どうしたの?」
訝しげな母親の声。
「塩はある!?」
「何に使うの?」
「盛り塩だよ!」
確か塩には怪異を遠ざける力があったはず。
「やめたほうがいいわよ」
母親が言った。
「やめろよ、それ」
妹も言った。
ふと圭祐は我に返った。
「……そうだな」
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