外伝二 人柱の娘・Ⅳ


 ……不思議だ。

 あたしは驚いた。


 順正は、薬湯りんすの後に、また別の薬湯を使った。

 そおぷと言う薬湯である。

 目の細かい手拭いに、薬湯そおぷ垂らし、白い泡を大量に作ったのだ。


 桶に、そおぷで作った泡が山盛りになる。

 まるで小さな入道雲が、桶の中で生まれたようであった。


 「この泡で顔や体を洗うんだ。

 ほら、ソープもいい香りがするだろ。

 汚れが全部取れて、肌がすべすべになるよ」

 順正は、桶に溢れた泡の三分の一ほどを、手の平ですくい取った。

  

 「背中を洗ってあげるよ」

 順正は、すくい取った泡で、優しくあたしの背中を洗いはじめた。


 しばらくすると、後ろから順正が聞いてきた。

 「……もしかして、ニビト川に堤を築くため、人柱にされたと言うのは、あんたなのかい?」

 

 ……そうよ。

 ゆるんでいた心の底に、じわりとドス黒いものがよみがえった。

 

 「大変だったな……」

 そう言ったのを最後に、順正はしゃべらなくなった。


 大変の一言で済むような苦痛では無かった。

 どんな言葉でもいい表せない苦痛の中に、百年もいたのだ。


 順正は、黙り込んだまま、背中だけではなく、うなじ、肩、二の腕も洗ってくれた。

 それから、小滝の湯であたしの背中を流す。

 そのとき、水音に混じって、小さく鼻をすするような音が聞こえた。


 ……泣いている?


 「……よし。

 背中はきれいになったよ」

 背後で、順正が立ち上がった気配がした。


 もしかして、あたしのために、泣いていたのだろうか。

 泣いていたから、しゃべらなかったのだろうか。


 「残りの桶の泡で、顔や手足を洗ってね。

 泡を水で流したら、湯船にたっぷりと浸かったらいいよ」


 順正の言葉を聞いたあたしは、肩越しに振り返った。

 しかし、すでに順正は背を向け、湯殿を出ていくところだった。


 「湯から出るときは、呼んでくれ。

 たぶん、おれには聞こえるから」

 振り向かないまま、そう言い残して、順正は湯殿を出ていった。


 あたしは泡で顔や体を洗い、流れっ放しになっている小滝で、その泡を流し、湯船に入った。


 気持ちがいい……。

 縦長で広い湯船だった。

 顎まで湯につかり、足を十分に延ばせる。


 自分の手を見る。

 相変わらず、枯れ枝のような指と、骨の形が浮いた手の甲だった。

 だけど、汚れは、きれいに落ちている。


 少し幸せな気分になった。

 穴から這い出たときに比べ、あたしの意識は、ずいぶんとはっきりとしてきたように感じられた。

 

 しばらくしてから、あたしは湯船の中で立ち上がった。

 ……湯から出たよ。

 ……湯から出たよ。

 そう呼び掛けてみる。


 すると足音が近づいてきた。

 そして「はいはい」と、順正の声が聞こえた。

 声の調子に、笑いそうになってしまう。


 「こっちにおいで」

 順正は湯殿の戸を少しだけ開けて、あたしを呼んだ。

 覗かない。

 声だけである。


 湯殿を出て、白装束を脱いだ小部屋に移ると、壁に二つの服が掛けられていた。


 「姉貴のお古なんだけどね。

 こっちは浴衣。

 浴衣だったら、安心して着られるだろ。

 こっちはワンピース。

 今の時代の衣服だ」


 順正は、あたしに背を向けたまま言う。

 身に何もつけていないあたしに、気を遣っているようであった。


 「ワンピースは、妙な形の服に見えるかもしれないけど、言ってしまえば、筒状になっている貫頭衣だよ」


 どっちの衣服も素敵だった。

 浴衣は、あたしの知っている浴衣とは違った。

 薄い桃色に、濃い桃色と紅色の染料を使い、大小いくつもの朝顔を染め上げている。

 綺麗な浴衣であった。


 わんぴいすという服は、ここに来るまでの間、若い女性が、着ているのを見た。

 色や形は少し違っていたが、華やかな服であった。

 掛かっているわんぴいすは、若葉色と浅黄色の細い格子柄であった。

 心が惹かれる、色合いと柄である。


 どっちの衣服も素敵だった。

 どちらかと言えば、わんぴいすという衣服を着てみたい。

 だけど、あたしに似合うかどうかが分からない。

 どきどきする。

 あたしは迷っていた。


 「どっちも似合うと思うぞ」

 あたしの考えを読み取った訳でもないだろうに、順正がそう言った。


 あたしは思い切って、わんぴいすを指さした。

 ……あたしは、わんぴいすを着てみたい。


 あたしは、わんぴいすの着方を順正に教えてもらい、何とか身につけた。

 もちろん、着たと言っても、わんぴいすは壁に掛かったままである。

 だけど、他の人は着ることはできないだろう。

 着たとしても、落ち着かず、不快になり、すぐに脱いでしまうと思う。

 このわんぴいすは、あたしのものになったのだから……。


 「できたわよ~~」

 女性の声が聞こえてきた。


 「母親だよ」

 そう言った順正が、改めてあしたを見た。

 上から下まで視線を移動させる。


 「うん。似合ってるよ」

 取って付けたような言葉である。

 だけど、嬉しかった……。


 順正に案内され、最初の部屋に戻った。


 ……これ。

 あたしは、目を丸くした。

 大きな座卓が据えられ、そこに御馳走が並んでいたのだ。


 茶碗に大きく盛られた、湯気のあがる炊き立ての白米。

 菜の浮かぶ味噌汁。

 焼き魚が丸々一尾。

 蒸したハマグリ。

 小鍋に入った豆腐。

 根菜とキノコの煮物。

 おそらくは鶏の肉を煮つけたもの。

 佃煮。漬物。

 湯飲み茶わんに入っているのは、白湯ではなく、お茶である。


 「順正。

 そこに、女の子はいるのかい?」

 ご馳走の横に座っていた女性が、順正に問うた。


 さっき聞こえた声と同じである。

 つまり、順正の母親だ。

 順正の母親は、ご馳走ができたと呼んでくれたのだ。


 「いるよ」と順正が答える。

 順正の母親には、あたしが見えていないようだった。

 

 「ゆっくりと一杯食べてくださいね。

 おかわりは、たくさんありますからね。

 遠慮なく言ってちょうだいね」

 順正の母親は、優しい笑みを見せて、そう言うと、部屋から出ていった。

 

 「さあ、食べて」

 順正にうながされ、あたしはご馳走の前に座った。


 途端、胃が捩じれるような空腹感に襲われた。

 いや、空腹感などという生ぬるいものではない。

 飢餓感である。


 あたしは、置かれていた箸を手にすると、白米を口に運んだ。

 白米を食べ、味噌汁を飲み、煮つけを口にする。

 そこで「いただきます」と言っていないことに気付き、慌てて箸をおくと、「いただきます」と言った。


 食べ終わるまでに二度、順正は白米と味噌汁のおかわりを持ってきてくれた。

 もちろん、わんぴいすと同じで、白米やおかずの実体は座卓の上に残っている。

 あたしが触れても動くことすらない。

 

 順正は、あたしが「おかわりが欲しい」と言うと、実体のある白米を下げ、新しく茶碗によそった白米を運んできてくれたのだ。

 きちんとした、おかわりである。

 順正に後で聞くと、供えて食された料理は、形は残っていても、まったく味がしなくなるらしい。


 食事を終えると、順正が、あたしの顔をのぞき込んだ。

 「うん。血色も良くなった。

 肌の張りも出てきた。

 頬も少しふくよかになったよ」


 そう言った順正は、あたしの右手を取った。

 左手と右手で、あたしの右手を優しく包み込む。


 「ほら、土色で筋張っていた手が、肌色になり、ふっくらとしてきたよ。

 爪は薄桃色になっているよ。

 手が温かい。

 もう、大丈夫だ」

 そう言って、あたしの右手の甲を、手の平を、指を何度もさするようになでる。


 順正が手を離すと、あたしの手は元に戻っていた。

 人柱となる前の、あたしの手だ。

 順正の言葉で、食べたご馳走の滋養が、体の隅々まで行き渡ったようだった。

 

 順正が鏡を持ってきた。

 あたしは、鏡から目をそらした。

 鏡をのぞき込み、自分の顔を見ることに不安を感じたのだ。


 鏡を避け、泳いだ視線が順正に止まる。

 順正は笑みを浮かべていた。

 その笑みが、何も心配はいらないよと言っていた。

 

 あたしは、恐る恐る鏡を見た。

 あたしの顔が映っていた。

 百年も昔、母の形見の鏡で見た、自分の顔である。

 人柱になる前の、幸せだったころの自分の顔である。

 

 「名前は?」

 順正に問われた。


 ……ヤエよ。


 「ヤエちゃん。

 これから、町に出てみようか」


 ……町に?

 ……何をしに?

 あたしは、順正にたずねた。


 「遊びに」

 順正は、陽だまりに誘うような笑顔で、そう言った。



      つづく。

 

 次で、最終となる予定です。

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