第十二話 タイムカプセルから出てきた闇・Ⅴ


 教室の中は薄暗かった。


 舞原は、窓の下の壁に背中を当て、立てた両膝を抱えて座り込んでいる。

 ぼくも舞原の横に、そっと座り込んだ。


 目の前には机と椅子がずらりと並び、その向こうはカーテンの閉じられた窓がある。

 カーテンを開けて下を見ると、運動場が見えるはずだ。


 ほんの二時間ほど前まで、その運動場で、慎吾や正平たちと、笑いながらドッジボールをしていたのが、嘘のようだった。


 「……ねえ、タケル。

 どうなっちゃうの? あたし怖いよ」

 舞原がささやくように言う。


 ぼくだって怖い。でも、ぼくは男の子だ。

 「……もし、ここに先生が入ってきたら、ぼくが椅子を振り回してやっつけるよ。

 久美ちゃんは、その間に逃げて」

 覚悟を決めてそう言った。


 「でも……」

 舞原が心配そうに、ぼくを見る。


 ぼくは、一ノ瀬と言う子が書いた、あの手紙の文章を思い出した。

 『ぼくはまだ小さいから、木原先生にはかなわない』

 ……ぼくだって小さい。

 新田先生どころか、舞原よりも少し背が低い。

 でも、ここで新田先生にかなわなければ、ぼくだけじゃなく舞原も……。


 と、足音が聞こえた。


 舞原の体が強張ったのが分かった。

 舞原にも、足音が聞こえたのだ。


 ヒタ、ヒタ、ヒタ……。

 四回まで上ってきた誰かが、ゆっくりと廊下を歩いている。


 舞原は悲鳴が漏れないように口を押え、ぼくに体を押し付けた。

 その体が小刻みに震えている。

 ぼくも震えだしそうだった。


 ヒタ、ヒタ……。

 ヒタ、ヒタ……。

 ヒタ、ヒタ、ヒタ……。

 湿ったような足音が近づいてきた。


 どうやっても目の覚めない、悪夢の中にいるような感覚に襲われる。


 そして、足音は、ぼくたちの後ろまで来た。

 壁と窓の向こうに新田先生がいる。

 すぐ後ろだ。


 ぼくは耳に神経を集中し、背中の向こうの足音を聞き逃すまいとした。

 ヒタ、ヒタ……。

 ヒタ。


 ……足音が止まった。


 いる。

 薄い壁と窓をはさんだ真後ろに、新田先生が立ち止まっている。

 ぼくたちの背中から、五十センチも離れていないだろう。


 どうして立ち止まったのか? 

 まさか、ぼくたちが教室に隠れていることが、分かったんだろうか……。


 ミシ……と、頭の真上の窓ガラスがわずかに軋んだ。

 ぼくは強く目を閉じた。

 軋んだのは、ぼくたちが教室に入り込んだ窓である。


 さらにミシリ……と窓ガラスが軋む。

 窓ガラスに手の平を当て、教室の中をのぞき込んでいる新田先生を想像した。

 先生が窓ガラスに手の平を当てた時の圧力で、窓がミシリと鳴ったのだ。


 もし想像が当たっているなら、ぼくたちと先生は、もう壁一枚の厚みしか離れていない。

 壁に密着するようにうずくまっているぼくたちは、窓から中をのぞき込む先生の視界に入っているんだろうか……。


 ぼくの頭の中に浮かぶ新田先生のイメージは、吊り上がった目が飛び出るほどに見開き、口は大きく裂け、もはや人間の顔をしていなかった。


 どれぐらいの時間が過ぎたのか、再びヒタ、ヒタと廊下から足音が聞こえた。

 ヒタ……。

 ヒタ、ヒタ、ヒタ……。


 足音は止まらない。

 ぼくたちの真後ろから始まった足音は、そのままヒタ、ヒタ、ヒタと遠ざかって行ったのだ。


 完全に足音が聞こえなくなってから、ぼくは大きく息を吐いた。

 気が付くと、舞原は小さく嗚咽をもらしていた。


 教室の壁にある時計は、午後六時を回っている。

 カーテンが少し開き、窓の向こうに空が見えた。


 まだ明るい。

 でも、昼間の叩きつけてくるような陽射しの強さは無い。

 これから夕暮れが始まるのだ。


 このまま、暗くなったらどうすればいいんだろうか……。

 そう考えたぼくは、とんでもないことに気がついた。


 さっき見たときは、カーテンは完全に閉まり、空は見えていなかったはずである。

 今、そのカーテンが、外からの風にあおられて揺れているのだ。


 「久美ちゃん!」

 ぼくは舞原の手を引っ張って立ち上がった。


 同時にカーテンが大きく揺れた。

 カーテンの向こうに、ニタニタと笑う新田先生の顔が見えた。


 舞原が悲鳴をあげる。


 おそらく新田先生は鍵を使って隣の教室に入り、窓の外へと出ると、ひさしを渡って、この教室に来たのだ。

 この教室は運動場側の窓の鍵も開いていたのだろう。

 その窓をそっと開けたため、外から入り込んできた風でカーテンが揺れたのだ。


 ひさしに立つ新田先生は、窓を大きく開いた。

 そのまま大きな蛇のような動きで、するりと教室に入ってきた。


 「来るなッ!」

 ぼくは近くの椅子を手に取って構えた。


 先生の間には、まだいくつもの椅子や机がある。

 いきなりハサミで切りかかられることはない。


 「久美ちゃん、逃げて!」

 ぼくは両手で椅子の背を握り、先生を睨みながら言う。


 ガチャガチャと背後で音がする。

 舞原がドアの鍵を開けているのだ。


 ガラッと出入り口の引き戸の開く音がし、舞原が廊下に出る気配がした。

 これで舞原だけは助かる。

 そう思った瞬間、廊下から舞原の悲鳴が聞こえた。


 「久美ちゃん!」

 ぼくは新田先生に向かって椅子を投げつけると、舞原の名前を呼びながら教室を飛び出した。


 舞原は廊下に座り込んでいた。

 信じられなかった。

 舞原の前には、『墓地』で見た、あの男が立ちふさがっていたのだ。


 そうだ……、この男もいたのだ。


 「椅子を投ゲるだなんテ……。許しマセん」

 後ろからは、ぼくを追って新田先生が廊下に出てきた。


 ぼくは、舞原の横に駆け寄った。

 くそっ。

 男と新田先生を交互に睨む。

 くそっ、くそっ、くそっ……。


 もう、逃げようがなかった。



        つづく

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