第一話 ニビト堤の人穴・Ⅰ
「じゃあな、タケル」
「ばいばい、慎吾」
ぼくは、土手の上で慎吾と別れると、自転車にまたがった。
さっきまで、土手を降りた場所にある河川敷で、キャッチボールをしていたのだ。
ひさしぶりのキャッチボールは、家の中でやるゲームより楽しかった。
自転車のペダルをこぐ足に力をこめると、耳元を通り抜けていく風の音が強くなる。
今、自転車で走っている進行方向から、土手を右側に降りると、河川敷に遊歩道や小さな公園があり、その向こうをニビト川がゆったりと流れている。
左側に降りていくと田畑や国道、住宅街が広がり、ぼくの家もその中にある。
もうすぐ始まる夏休みに、ぼくはわくわくしていた。
……あれ?
ぼくは自転車のスピードをゆるめた。
土手の道の右端に、誰かが、しゃがみ込んでいることに気がついたのだ。
堤防の斜面が始まる辺りの草地である。
それは、おじいさんのようであった。
ニビト川に向かう斜面に、おじいさんが一人、背中を丸めてしゃがみ込んでいる。
あたりには、誰もいない。
……もしかして。
ぼくは三年生のときの社会の授業を思い出した。
クラスのみんなで、町の地図をつくったときのことである……。
◇◆◇◆◇◆
「いいかい、この地図にみんなの家がある場所をかいてみよう」
八つ合わせた机のうえに、安住先生がバサバサと大きな地図をひろげてみせた。
安住先生は、どこか熊に似た男の先生である。
眉が太く、もみあげが長い。
怒ると恐そうだけど、ぼくはまだ、怒っている安住先生を見たことは無かった。
安住先生の広げた地図には、ぼくたちが通う野火塚小学校を中心に、国道や駅までの大通り、消防署や警察署などが大ざっぱにかかれていた。
町の北西を流れるニビト川もかかれている。
「うわあ、大きな地図」
「これ、先生が自分でかいたの?」
ぼくたちは騒ぎながら地図を囲み、それぞれ自分の家のある場所を探しはじめた。
「パン屋さんの角ってここかな?」
「この角を曲がって、この場所があたしの家」
「私のマンションはここ。ここのB棟なの」
「この道から二つ目の角だから、え~~と」
みんなが自分の家をかき込むと、安住先生は、ぶ厚い手をパンパンと叩き、次は知っているお店や建物もかき込むように言った。
「さあ、どんどんかいて、みんなで地図を完成させよう」
空白が多かった地図に、色んなお店や建物がかき込まれていくのは、見ていて楽しかった。
「へえ、あそこに公園があったんだ。
タッチンの家は本屋さんの近くなんだ。いいなあ。
……あれ? あの印はなんだろう?」
ぼくはニビト川の土手にかき込まれた、人の形をした印に気がついた。
「あれ、オレがかいたんだ」
いたずらっぽく笑いながら、慎吾が小さな声で、ぼくに言った。
「なんなの、あれ?」
「あそこにさ、いつも変なじいさんが、しゃがみ込んでるんだ」
「おじいさんが?
しゃがみ込んで、何をしてるの?」
「金づちで地面を叩いてるんだよ。
その印」
「なにそれ?
そんなのかいたら、先生にしかられるよ」
「だいじょうぶだって」
結局、安住先生は、その印に気がつかなかったのか、なにも言わなかった。
一昨年のことである。
◇◆◇◆◇◆
あそこにしゃがんでいるのは、あのとき慎吾の言っていたおじいさんなのだろうか?
自転車の速度を落とし、ゆっくりと近づいていくと、そのおじいさんが右手に握った金づちで、何度も何度も、地面をトントンと叩いているのが見えた。
まちがいない。慎吾の言っていたおじいさんだ。
……でも、どうして地面を叩いているんだろう?
目を凝らしたぼくは、それを見た。
おじいさんが叩いているものが見えたのだ。
思わず自転車のブレーキを強くかけた。
ブレーキのきしむ音が大きくひびき、自転車が止まる。
信じられなかった。
おじいさんが叩いていたのは、地面じゃなかった。
おじいさんは、地面から生えている二本の手をトントンと金づちで叩いていたのだ。
泥にまみれ、土色をした細い手である。
おじいさんは、ゆらゆらと動くその手を金づちでトントンと叩いているのだ。
よく見ると、金づちはその手をすり通りぬけて、地面を叩いている。
それでも、おじいさんは、その手を狙って打つように、くり返し金づちを打ちおろしていた。
おじいさんが、金づちを振りおろす。
金づちが手をすり抜けて、地面をトンと叩く。
トントン、トントン、トントン。
おじいさんが、金づちを振りおろす。
金づちが手をすり抜けて、地面をトンと叩く。
トントン、トントン、トントン、トントン。
トントン、トントン、トントン、トントン、トントン。
すり抜けていても金づちで叩くことに効果があるのか、手はだんだんと動きが弱々しくなり、地面へと沈み込んでいった。
最後には指だけが地面からツクシのように生えていたが、それもトントンと叩かれるうちに消えてしまった。
そして、おじいさんは立ちあがってぼくに顔を向けた。
ぼくが見ていたことに、気がついていたのだ。
おじいさんは、ぼくを憐れむように見ながら、ゆっくりと近寄ってきた。
つづく
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