第二十九話 リクドウ池の氾濫・Ⅵ


 「わわ!」

 のけぞったぼくの鼻先で、オウムのように尖った口がカツンと閉じた。

 音が怖い。

 簡単に肉を切り裂く音である。


 「タケル!」

 舞原の悲鳴が聞こえたが、すぐにゴボゴボという音に打ち消された。

 ぼくはワニガメともつれ合うようにして、再び水の中に沈んだのだ。


 ワニガメは、滅茶苦茶に重たかった。

 身長は、当然、ぼくの方が大きいが、体重は、はるかにワニガメの方が重い。

 水の中で仰向けなったぼくの胸の上に、バカでかい石がのし掛かってきているようだった。


 もうダメだ……。


 そう思った時、ぼくの頭の方向から。

 何かが伸びてきた。

 それは、濁った水の中でもはっきりと分かる、深い緑色をした腕だった。

 指の間には水かきが広がっている。


 水かきのある手は、ワニガメの鼻面をつかむと、グイッと強く押した。

 ぼくは、ワニガメの重さから解放された。


 「……ぶはッ!」

 自由になったぼくは、水中から顔を出した。


 「タケル!」

 レジ台にしがみついていた舞原が叫んだ。

 よほど怖かったのか、泣き出している。


 「だいじょうぶか!」

 水を掻き分けて、こっちに走ってくる工藤の兄ちゃんが見えた。


 次の瞬間、ぼくの目の前で、大きな水しぶきがあがった。

 水中から、あのワニガメが、垂直に弾き飛ばされたのだ。


 天井近くまで跳ね上げられたワニガメは、甲羅を下にし、引っくり返った体勢で、パンの陳列棚に大きな音を立てて落下した。

 その衝撃で、陳列棚の太い針金が、歪んで外れ、ワニガメに絡まる。


 ワニガメは、ジタバタと足掻くが、そこから動けなくなってしまった。


「なんだ、あれは……」

 ワニガメを見た工藤の兄ちゃんが絶句する。


 甲羅だけで一メートル近くはある、怪獣のようなワニガメだったのだ。

 首を背後にねじって伸ばし、ガチガチと体に絡む太い針金を噛みきろうとしている。


 一体、どうしてワニガメは、水中から弾き出されたんだろうか……。

 もしかして!


 ぼくは店内に満ちている水に視線を走らせた。

 そして、開きっ放しのドアから、静かに外へと出ていく影を見つけた。


 ……ありがとう。

 また、助けてくれたんだ。


 ぼくは、リクドウ池の秘密基地で一緒に遊んでいた、もう一人の男の子のことをはっきりと思い出していた。


 キョトンとした大きな目、大きな口、そして鼻の小さな男の子だった。

 あまりしゃべらないその子は、いつもニコニコと笑っていた。

 立派な秘密基地は、その子が作ったのだ。


 『ト、トモダチ、イナイ、ンダ……。

 トモダチ、ナッテ、ホシイ』

 寂しそうにそう言った男の子。

 ぼくと舞原は、すぐに友達になった。


 舞原がリクドウ池に落ち、泳げないぼくが飛び込み、そして、ぼくたち二人を助けてくれたのが、その男の子だった。


 でも、舞原は引っ越してしまい、ぼくも、リクドウ池には行かなくなってしまった。


 ぼくはいつの間にか、すっかりと忘れてしまっていたのに、まだ、あの子は覚えていてくれたのだ。

 舞原を見ると、舞原も店から出て行った、その影を見つめていた。


 「おーーい」

 駐車場で声がした。

 二人の救急隊員が、腰まで水に浸かりながら、こっちに向かってくるのが見えた。


 気が付くと雨は止んでいた。


   ◆◇◆◇◆◇◆◇


 その夜、地図に、コンビニとリクドウ池を描き『怪』の印をつけた。

 そして、『怪』の印の横に、ぼくと舞原、あの子の似顔絵を描いてみた。


 翌日、ぼくは、リクドウ池へと向かった。

 すっかり水は引いていたけど、周辺は泥だらけで、近くに住む人たちがホースの水で、家の前の泥を洗い流していた。


 ぼくは小遣いで買ってきたキュウリを三本持っていた。

 リクドウ池を囲む金網の前までくると、舞原がいた。

 舞原も手にキュウリを持っていた。

 ただ僕のキュウリとは違い、きれいにリボンで巻かれている。


 「舞原、やっぱり来てたんだ」

 ぼくは舞原に声をかけた。


 「タケルもキュウリを持ってきたの」

 「そりゃ、河童の大好物はキュウリだしね」

 舞原のキュウリはリボンが巻かれていただけではなく、手紙も添えられているようだった。

 「なにそれ? 手紙」


 「そうよ。感謝の手紙を書いたの」

 「ふ~~ん」

 少し河童がうらやましくなってしまった。

 ぼくも舞原を助けたんだけどなあ……。


 ぼくたちは金網の穴の開いた部分を見つけると、素早くくぐってリクドウ池の近くまで歩いた。

 そして、岸辺に持ってきたキュウリを並べて置いた。


 「ありがとうな。助かったよ」

 「また、いつか一緒に遊べたらいいね」

 ぼくと舞原はそう言うと、池に背を向けた。


 再び金網の穴をくぐって道路に戻ろうとすると、後ろでバシャンと大きな水音がした。

 ぼくと舞原は振り返った。

 ……そこには、何もいなかった。


 それでも、ぼくたちは池に向かって大きく手を振った。


   ◆◇◆◇◆◇◆◇


 一週間後。

 ぼくはコンビニの前で、工藤の兄ちゃんと会った。

 コンビニは大掛かりな清掃と消毒をし、商品の入れ替えが、ようやく終わったらしい。


 「じゃあ、明日から、再開するんだね」

 「そうだよ」

 そう答えた工藤の兄ちゃんは、「そう言えば」と話を変えた。


 「ほら、あのときに、クソみたいなおっさんがいただろ。

 パニックになって、騒いでいた、おっさん」

 「いたよね」

 ぼくは苦笑いを浮かべた。

 間違っても、あんな大人にはなりたくない。


 「あのおっさん、救急車で運ばれるはずだったんだけど、いなくなったらしいんだ」

 「いなくなった?」

 

 「ここの駐車場が池みたいになっていただろ。

 だから、救急車は、道路の方に停めてあったらしいんだ。

 で、おっさんを、そこまで運んで、救急隊員が少し目を離したすきに、いなくなっちまったんだと」


 「ホント?」

 「ああ、後から、おっさんがいなくなったけど、どこの誰だか知らないかって、救急隊員が聞きに来たんだよ」


 「へーー、どこに行ったんだろ」

 「たぶん、恥ずかしくなって逃げたんだろうな。

 みっとも無い真似ばかりしてたからさ」

 工藤の兄ちゃんが、あのときのことを思い出したのか「くくくく」と笑った。


 「違うよ」

 そのとき、ぼくたちの後ろから声がした。

 振り返ると、そこには、あのとき店にいたおばあさんがいた。

 工藤の兄ちゃんが背負い、バックルームに運んだおばあさんだ。


 「あの男はね、リクドウの池に引っ張り込まれたのさ。

 あの池は、あの世と繋がっていてね、昔から、悪いことをした人間を引きずり込むんだよ」

 

 そう言ったおばあさんは、ぼくたちの後ろから離れ、リクドウ池とは反対の方へと歩き去っていった……。


             了


      『終わらない地図』へ、つづく

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