第二十四話 リクドウ池の氾濫・Ⅴ
「外に逃げるのは、厳しいか……」
工藤の兄ちゃんが、さすがに緊張した顔でつぶやいた。
ぼくも、そう思う。
店内の水は腰の辺りまでだけど、外はさらに深くなっているはずだ。
雨も止んでいない。
河童が水中から近づいてきても、水面を叩く雨の波紋で分からないと思う。
それに、もしかすると、外の駐車場に出来た大きな池には、もっと多くの河童がいるかも知れないのだ。
「バックルームの中に、避難するしかないな」
工藤の兄ちゃんがそう言った。
バックルームのドアは、トイレと同じ、レジの反対側にある。
こっちはスイングドアではなく、きちんとドアノブがついたドアである。
バックルームの中も浸水しているだろうけど、中に入ってドアを押さえれば、さすがに河童も入って来ることは出来ないだろう。
「いいか、タケル。
オレは、最初におばあさんを背負ってバックルームに運ぶ。
すぐに戻ってくるから、それまで頼むぞ」
「うん。任せて」
ぼくは頷いた。
「馬鹿野郎!
ケガ人が優先だろ。オレを先に運べよ!」
わめくおじさんを無視して工藤の兄ちゃんは、奥のレジの上に座っているおばあさんに背中を向けた。
「背負いますから、乗ってください」
「あたしはいいから、子供たちを先に運んでくださいな」
おばあさんは、最初首を横に振ったが、「いいから早く」と工藤の兄ちゃんにせかされ、申し訳なさそうに、その背中にしがみついた。
そのまま工藤の兄ちゃんは、色んな商品の浮く濁った水を掻き分け、バックルームのドアへと向かっていく。
レジ台に立つぼくと舞原は、ハラハラしながらそれを見守った。
工藤の兄ちゃんは、おばあさんを背負ったままバックルームのドアの前にたどり着いた。
そのままドアを開けて、バックルームの中に入っていった。
ホッと息をついた時、レジの近くの陳列棚がガンと音を立てて大きく揺れた。
水中で、何かがぶつかったのだ。
「うわわわわ!
お、お前ら、どけ!」
パニックになったおじさんが、ぼくと舞原が立つレジ台に、這い上がろうとしてきた。
「きゃあ!」
押された舞原がバランスを崩し、レジ台から店内側に落ちた。
大きな水しぶきがあがる。
その水しぶき向かって、黒い影がゆらりと近づいて行くのが見えた。
「久美ちゃん!」
ぼくは舞原の名前を呼ぶと、とっさに舞原と黒い影の間に足から飛び込んだ。
床に着いた足が滑って、頭まで水の中に沈み込む。
反射的に目を開けたが、濁った水の中では、ほとんど何も見えない。
……あの時と同じだ。
ぼくは、不意に昔のことを思い出した。
小さいころ、今と同じようなことがあったのだ。
そうだ、リクドウ池に、舞原が落ちたのだ。
記憶が細切れのシーンになって浮かびあがる。
学校の帰りである。
いつもの秘密基地で遊んで、溜め池の周囲を探検していたら、舞原が足を滑らせて池に落ちたのだ。
その時、ぼくは舞原を助けるために、池に飛び込んだのだ。
その事故が原因で、舞原は引っ越ししてしまったのだ
「危ない池のそばには住めない」と、そう舞原の両親が言っていた。
「あのね、助けてくれたんだよ」
ぼくは、舞原の両親や自分の両親に必死に説明をしたはずだ。
でも大人は「夢だよ」「そんなものはいないよ」と信じてくれなかった。
そんなことはない。
あの子が、舞原を助けてくれたのだ……。
あの子……。
あの子は、誰だったんだろう。
舞原を助けるために池へ飛び込んだけど、ぼくは泳げなかった。
溺れるぼくと舞原を、その子が助けてくれたのだ。
そこまで思い出した時、濁った水を掻き分け、ぼくの真正面から黒い影が迫ってくるのが見えた。
ぼくは反射的に手を突き出した。
手の平にゴツゴツとした固い皮膚のようなものが当たる。
グイッと力強く押されて、ぼくは水面から顔を出した。
そのぼくを追うように、そいつも水面に顔を出し、そのままのしかかってきた。
そいつはゴツゴツと尖った甲羅を持つ、巨大なカメだった。
怖ろしいことに、そのカメの顔の大きさは、ぼくと同じぐらいであった。
その顔の半分は巨大なくちばしとなって、前に突き出している。
ぼくは、そいつの正体が分かった。
ワニガメだ。
元々はアメリカに生息していたカメである。
ペットとして輸入された個体が逃げ出したり、大きくなりすぎて困った飼い主が捨てたりして、日本の池や川に棲みつき、問題になっている外来種だ。
性質は凶暴で、人間の指など簡単に食いちぎるほどの顎を持っている。
ぼくにのしかかってきたワニガメは、最大サイズに育った怪物である。
ワニガメが首を伸ばすと、ぼくの顔に噛みつこうとした。
つづく
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