外伝一 真夜中のキッチン・Ⅲ
「さっき上がってきた階段を覚えているよね。
途中で曲がっていたでしょ」
後で知ったのだけど、A子が言うのは、途中で90°向きを変える階段のことで、これは、『かね折れ階段』と言うらしい。
途中で向きを変えることにより、狭い面積でも、緩やかな傾斜の階段を作ることができるのだ。
「あたし、あの曲がり角まで階段を降りて、そっと一階をのぞいたの。
あの角からだと、ダイニングのテーブル辺りが見えるのよ。
おばあちゃんが、いつも座っている場所」
A子が話を続ける。
「おばあちゃんはね、いつも、テーブルのあの椅子に座って、キッチンで働くお母さんに嫌味を言っていたの。
だけど、その椅子には、誰も座っていなかったわ。
ほんの少し前まで、お母さんを罵る声が聞こえていたのに……。
でもね、よく見ると、椅子の背もたれには、グレーのカーディガンが引っ掛けられていたの。
おばあちゃんが、夜になると、いつも着ていたカーディガンよ……」
「……お母さんは?
お母さんも、いなかったの?」
慎吾が問う。
「ううん。お母さんはいたわ。
階段の角からだと、姿は見えなかったけど、キッチンで動いている音は聞こえていたの」
「動いてる音って?」
今度は、ぼくが聞いた。
「水道から水を出す音。
包丁で、何かを断ち切ったような音。
棚の奥から、大きな鍋を出しているような音も聞こえたわ。
しばらくしたら、お母さんは、テーブル近くまで移動してきたの。
そのとき、腰の辺りまでが見えたわ。
エプロンをしていたわ。
お母さんは、料理を始めていたのよ」
A子の言葉が、妙に平坦に聞こえる。
「夜中に料理を始めるなんて、今までなかったのよ。
そんなことをしたら、絶対におばあちゃんが文句を言われるからね。
何時だと思っているの。
こんな夜中にうるさい。
常識が無い。
ってね……。
でもね、そのおばあちゃんは、カーディガンを残して消えちゃってるの」
……どこに消えてしまったんだろうか。
A子の話を聞くぼくは、おぞましいことしか想像できなかった。
「あたし、怖くなって、部屋に戻ろうとしたの。
それで、体の向きを変えたとき、足の下で、階段の踏み板が軋んだの。
ギッ……ってね。
ほんの小さな音だよ。
でも、その音が鳴ったすぐ後に、水道の音がピタリと止まったの。
静かになったわ。
キッチンから、何も音がしなくなったの。
たまたま、そのタイミングで、お母さんが水道の蛇口を閉めたのか、それとも、あたしが立てた階段の軋む音に気付いて、水道を止めたのかは分からない。
あたしは両手も階段につけ、四つん這いの姿勢になって、なるべく音を立てない様に、急いで階段を上り、そっと部屋に戻ったわ。
ドキドキしながら、明かりを消したままの暗い部屋に戻り、ドアを静かに閉め、ベッドの上、布団の中に滑り込んだの。
布団をかぶって、目を閉じたわ。
だいじょうぶ。
音は立てていなかったはずよ。
気付かれていない。
気付かれていない。
そう自分に言い聞かせ、息を整えていると、ガチャッとドアノブが回る音がしたの。
お母さんが部屋に入ってきたのよ。
あたしは目を閉じたまま、眠ったふりを続けたわ……」
A子は、そこで黙り込んだ。
見ると、そのときのことを思い出しているのか、表情が固まっている。
「それから……、どうなったの?」
聞きたくはない。
だけど、知りたい。
相反した気持ちのまま、ぼくは、話の続きを求めてしまった。
「……何も音がしなかったの。
目を閉じたままだから、お母さんが部屋に入って来たのか、入って来なかったのかも分からない。
もしかして、そっと入って来て、あたしが眠っているのを確かめた後、部屋を出ていったのかも知れない。
目を開ければ、確かめることは出来るけど、怖くて出来なかった……。
耳を澄まし、時間が過ぎるのを待ったわ。
頭の中で、ゆっくりと600数えたの。
10分よ。
その間、部屋の中で何一つ物音はしない。
息遣いも聞こえない……。
それでもね、怖くて、目は開けられなかった。
そのうち、うとうととし始めて、本当に眠っちゃったの。
もう、明け方になっていたはずよ。
窓からスズメの声がチュンチュンって聞こえてきて、それで、少し安心しちゃったのね。
朝になったら、お母さんに起こされたわ。
キッチンからね、『A子、いつまで寝てるの。もう起きなさーーい』って、お母さんの声が聞こえたの。
あれは、いつものお母さんの声だったわ」
ぼくは、ホッと胸をなでおろした。
日常に戻って来ることができた気がしたのだ。
慎吾の様子を見る。
しかし、慎吾は、よほど怖かったのか、さっきより顔が強張っているように見えた。
「あたしは、『はーーい』って返事をすると、着替えて、一階に降りたの。
本当は、まだ少し怖かったんだけどね。
でも、いつまでも部屋に閉じこもっているわけにもいかないし、それに、お母さんの声を聴いたら、夜中のことは、夢だったんじゃないかとも思えてきたの」
「……おばあさんは?」
ぼくは、気になっていたことを聞いた。
「いたわ。
いつもの場所に座っていたわ。
ほら、今日も座っていたでしょ。
あの位置に座っていたの。
あそこに座っていて、あたしが『おはよう』って言うと、『はいはい。おはようA子ちゃん』って、ニコッと笑ったの。
一緒に朝ご飯を食べたら、『お母さんの料理は美味しいね』なんて言うんだよ」
「そっか。
じゃあ、夜中のことは夢だったんだね」
ぼくは、笑みを浮かべて言った。
「どうして?」
A子が、怪訝な顔でぼくを見た。
どこか怒っているような目になっていた。
「え……。
だって、おばあさんは、いたんだよね」
「あのね、おばあちゃんは、笑って『おはよう』って言う人じゃないし、お母さんの料理を褒める人でもないんだよ」
「それは、……仲直りしたんじゃないの?」
「だから、おばあちゃんは、仲直りするような人じゃないのよ」
A子が苛立つように言う。
どこか様子がおかしかった。
A子は、首を前に伸ばすようにして慎吾を見た。
「ねえ、さっき、料理の引き算の話をしたよね」
それから伸ばした首を横に向け、ぼくを見る。
「どうして、あたしが、あの話をしたのか、分かっていないの?」
A子の目が怖い。
微妙に食い違ってくる話も怖い。
戻ってきたと思った日常が、ぐらぐらと揺れていくようだった。
つづく
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