外伝三 存在しない猫の歌・Ⅵ


 「あ、やばい!

 もう、こんな時間だ!」

 校舎の大時計を見上げた慎吾が、慌てた顔になった。

 「じゃあ、おれ、行くわ!」

 「またな!」

 ぼくが手を上げると、慎吾は「おう!」と返して、正門から飛び出していった。


 「慎吾、どこへ行ったの?」

 舞原が不思議そうな顔でぼくを見る。

 「塾だよ。学習塾。

 金曜日は、学校帰りに、そのまま塾に行くことになったんだって」

 

 「ふ~~ん。

 慎吾、塾に通い始めたんだ」

 舞原の言葉に、何か裏側を感じてしまった。

 「なんだよ」

 ぼくは唇を少し尖らせて、舞原を見る。

 「え? 別に……」

 舞原はそう言ったが、あきらかに含むものがありそうだった。

 ぼくには、舞原の言いたいことが、何となく分かった。


 いつも一緒に遊んでいたのに、慎吾は塾通い、タケルは夏休みの宿題が、まだ終わっていない。随分と差がついちゃったね。

 おそらく、こんなことを言いたいのだろう。

 はっきりと口に出して言わないのは、舞原の気遣いなんだろうけど、その気遣いで、よけいに傷ついてしまう。


 「言いたいことがあるなら、はっきり言われた方が、気が楽なんだけどな」

 ぼくがそう言うと、舞原は仕方がないと言った顔で答えた。

 

 「……あのさ、タケル。

 『折り紙』ぐらい、漢字で書けないとダメだよ」


 ……そっちか。

 ぼくは、自分の口元が引きつったことを感じた。

 さっき、ノートの切れ端に、舞原と慎吾は『折り紙』と漢字で書いたのだが、ぼくは『おりがみ』と平仮名で書いたのだ。

 いやいや、漢字がまったく分からなかった訳じゃない。

 『折』という漢字が、『手へん』か『木へん』かで迷い、平仮名で書いたのである。

 ちょっとだけ、ほんの少しだけ自信が無かっただけなのである。

 ぼくは言い訳をするように、それを舞原に説明した。


 「……な。

 そう言うことだったんだよ。

 『木へん』で書いたら、そんな漢字は無いって、二人とも大笑いしただろ。

 だからさ……、平仮名で書いたんだよ」


 「……あるよ」

 舞原は気の毒そうな顔で、ぼくを見た。


 「なにが?」

 「『折』の部首を『木へん』に変えた漢字はあるのよ。

 『析(せき)』という漢字よ」

 「え?」

 ぼくは間の抜けた声を出した。

 「『分析』や『解析』の『析』」

 「……ははは、あるんだ」

 

 さすがに肩を落としてしまう。

 すると舞原が、ぼくの背中を平手で叩いた。

 パシンッと言い音が鳴る。

 「ほらほら、タケル。

 これから、これから!

 さあ、帰ろう。ね」

 一転して舞原が明るい声で言い、正門に向かって歩き始めた。

 「ま、待てよ。

 今の痛かったぞ!」

 そう言いながら、ぼくは舞原を追った。

 妙な励まされ方だったけど、少しだけ元気が出ていた。


 「あのさ、さっき慎吾が言ってたでしょ」

 並んで帰っていると、舞原がポツリと言った。

 「塾の話?」

 「違うわよ。

 ほら、ユキちゃんの話はしたくないって……」

 「ああ、言っていたよな。

 ユキちゃんの話をしたり、あの猫の歌を聴いたりする度、新しい記憶が生まれるって話だろ。

 このままじゃ、何かを呼び出すことになるかもとも言ってたよな」

 ぼくは、その意味の不気味さに、改めてゾクリとした。

 「……たしかに、ちょっと怖いよな」


 「あたしは怖くない」

 舞原は否定した。

 「怖くないのか?」

 「……私たちが、この先、ユキちゃんのことを話さなくなったらどうなるの?

 全部、忘れちゃうの?

 そしたら、ユキちゃんはいなかったことになるの?」

 そう言った舞原の横顔は哀しそうだった。


 ぼくは、岸本ユキちゃんの顔を思い出していた。

 明るく、誰にでも優しそうな笑顔をしている。

 いたのか、いなかったのか……、存在が曖昧な女の子。

 ぼくと舞原、慎吾の記憶から消えれば、この笑顔の女の子は、いなかったことになってしまうんだろうか……。

 確かにそれは、哀しい気がした……。


 「舞原。もう少し調べて……」

 ぼくが舞原に話し掛けたとき、前から来た男の人とすれ違った。

 そのとき、あの歌が小さく聞こえてきた。

 猫の歌である……。


 見つけたよ。迷子の子猫。

 小さく可愛い、黒い子猫。

 だけど、ほら、狭い場所に隠れてる。

 手を伸ばしても届かない。

 だから、お願いしたいんだ。

 優しいきみの手を借りたい……。


 ぼくと舞原は、同時に振り返った。

 すれ違い、去っていく男の人の背中を見る。

 あの男の人が、囁くような小声で歌っていたのである。

 振り返ってから、ぼくと舞原は顔を見合わせた。

 「聞こえた?」

 「聞こえたわ」

 「あの歌なんだろ」

 「あの歌よ」

 確認をする。


 すれ違った男の人は、長袖のラフなシャツを着ていた。

 去っていく後ろ姿は、やや細身である。

 すれ違った一瞬で、はっきりと顔は見ていなかったが、二十代後半ぐらいだったような気がする。


 「どうする?」

 ぼくの言葉に答える前に、舞原は今来た道を戻り始めた。

 すれ違った男の人を追いかけたのである。

 「舞原!」

 慌てて、ぼくも走った。


 ぼくたちは、すぐに男の人に追いついた。

 まだ、ぼそぼそと歌っている。

 舞原が声を掛けるのをためらったため、ぼくが思い切って声をかけた。

 「あ、あの、すみません」


 「…………」

 歌がピタリと途切れた。

 そして、男の人は立ち止っていた。

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