第十九話 奇妙な夏祭り・Ⅲ
「逃げろ!」
「うわあああああ!」
ぼくたちは慌てて回れ右をすると、降りかけていた斜面を必死になって這い登った。
あれは、人間じゃない。
斜面を登り切ると、今度は来た方向へと斜面を降りる。
すぐに後ろから、音が追ってきた。
ガサガサと茂みを掻き分ける音が追ってくる。
茂みを掻き分ける音に混じって、ブーーンという低い羽音がいくつも聞こえた。
ぼくは回収したバナナが入っていたビニール袋を投げ捨て、走るのに邪魔な虫かごも、ビニールの肩紐を引き千切ると投げ捨てた。
慎吾も「くそっ!」と言いながら、虫かごを投げ捨てる。
懐中電灯の光は、踊るように揺れて役に立たなかった。
ぼくも慎吾も、何度も木にぶつかりそうになり、石や木の根に足を取られそうになる。
もうそろそろ斜面が途切れて、自転車を停めた歩道に出るはずだった。
それなのにまだ森が続いている。
まさか、道に迷ったのかと思った。
でも、そんなはずは無い。
迷うほど広い森じゃないのだ。
後ろから追ってくる羽音は、耳のすぐ後ろまで迫り、羽音だけじゃなく、その風圧まで感じられるほどだった。
もう、ダメだ……。
泣き出しそうになった時、樹々のシルエットの間に、淡い藍色の空間が広がるのが見えた。
森を抜けたのだ。
停めている自転車のハンドルも見えた。
どうする!?
ここで迷った。
自転車に乗って逃げるのか?
乗ってしまえば、走るよりも早く逃げられる。
でも、鍵を外しているうちに、追ってきている何かに捕まってしまうかも知れない。
たぶん慎吾も同じことを考えていたのだろう。
そして、ぼくより早く決断した。
慎吾が大声で叫んだのだ。
「タケル、自転車は置いてくぞ!」
「分かった!」
ぼくたちは懐中電灯を投げ捨てると最後の斜面を駆け抜け、石垣の上からジャンプした。
そのまま自転車の横に転がるように着地する。
顔を上げて国道の方を見ると、歩行者信号が点滅している。
「行け、行け、行け!」
慎吾が叫んで駆けだした。
ぼくたちは、四車線の国道を一気に渡った。
渡り切る前に信号は赤になり、対面の歩道に飛び込んだぼくたちの後ろを、トラックが怒ったようにクラクションを鳴らして走り抜けていった。
ぼくたちはコンビニの明かりの下で腰が抜けたように膝をつき、大きく息を吐いた。
自分の手を見ると小刻みに震えていた。
息を整えると、手の震えが止まり、少し落ち着いてきた。
コンビニの明りも、トラックのクラクションも、膝をつくアスファルトの感触も、ぼくたちがまともな現実の世界へ戻ってきた証のように思えた。
あの奇妙な祭りや、森の中で追われていたことは、別の世界での出来事だったんだ……。
ぼくたちはそこから逃げて、こっちの世界に戻って来られたのだ。
ぼくと慎吾は顔を見合わせた。
「い、今の、何だったんだ?」
「さ、さあ……。
でも、こ、怖かった」
ぼくたちは、今、渡ってきた国道の向こうを見た。
見ると同時に、二人とも短い悲鳴をあげてしまった。
国道の向こうに三十人ほどの人影が立ち、じっとこっちを見つめていたのだ。
大人も子供もいる。
暗くて顔までは判別できないが、全員が歩道に立ち、ぼくと慎吾をジッと見つめているのが分かった。
あの真っ黒でツヤツヤした目玉をこっちに向けているのだ。
こっちの世界に入ってくる……。
ぼくたちは、恐怖で動くことが出来なくなった。
しばらくすると、その人影は一人、二人と森の中に戻って行った。
そして気がつくと、二人の自転車だけがそこに取り残されていた。
ぼくは慎吾の決断に感謝した。
もし自転車に乗って逃げようとしていたら、鍵を外している間に捕まり、森の中に引きずり込まれていたに違いない。
気が付くと、再び手が震えていた……。。
完全に明るくなるまで、ぼくたちはコンビニの店内にいた。
それから一度家に戻り、昼に待ち合わせをして、おっかなびっくり自転車を取りに行ったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その夜、ぼくは地図に『浦座競技公園』をかき込み、その周囲を囲む森に『怪』の印を入れた。
もし、あのとき、捕まっていたらどうなっていたんだろうか……。
なんとなく想像できることが幾つかあったが、どれも恐ろし過ぎて、ぼくは考えるのを止めた。
ぼくも慎吾も、この先二度と昆虫の標本を作ろうとは思わないだろう。
これで『怪』の印は五つになった……。
了
『リクドウ池の氾濫』へ、つづく
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