第四話 ニビト堤の人穴・Ⅳ


   ◇◆◇◆◇◆


 「うわあ」

 自転車を停め、土手のうえに立ったぼくたちは、河川敷を見下ろして、思わず声をあげた。


 三日間の雨で増水したニビト川に、河川敷はウソのように沈んでいた。

 慎吾とキャッチボールしていた場所は、もはや、どこだか分からない。


 背の高い樹々が、濁流の中から頭を覗かせ、そこに上流から流れてきた色んなゴミが引っ掛かっていた。

 普段はゆったりと流れていたニビト川は、びっくりするほど大きな川となり、土色に濁った水が激しく流れていたのだ。


 もしかすると、まだ川の上流では雨が降っているのかも知れない。

 川の水が土手を越えるほどではないけれど、不気味な光景だった。


 「そうだ!」

 ニビト川の迫力に気をとられ、ぼくはあの場所のことを忘れていた。


 「おい、タケル、どこ行くんだよ」

 自転車を停めた場所から離れ、おじいさんがいた場所を探そうとするぼくを慎吾たちが追ってきた。


 たしか、このあたりだったはずだけど……。


 「あ!」

 ぼくは思わず声をあげた。


 地面に深い穴がぽっかりと口をあけていたのだ。

 ちょうど人が一人、通りぬけられるぐらいの穴である。


 「なんだ、この穴?」

 正平がそう言い、ぼく、慎吾、正平、ヤッスンの四人は、穴の周囲に立って、底をのぞきこんでみた。


 どれほど深いのか、穴の中は真っ暗で、なにも見えなかった。


 金づちで地面の底へと追い返すおじいさんがいなくなったため、人柱として埋められていた娘が、這い出してきた穴なのだろうか。


 みんなと一緒に穴をのぞきこみ、そんなことを考えていたぼくは、視界の隅に、それを見つけてしまい、息が止まった。


 ぼくの正面の穴の縁には、正平が立っている。

 履いているスニーカーは、黒地に黄色でTのマークが入っている。

 右側の穴の縁には、ヤッスン。

 履いているのは、迷彩模様の運動靴。

 左側の穴の縁には、慎吾が立っている。

 履いているスニーカーは、赤地に、黒い三本ラインが入っている。

 ……それで終わりのはずだ。


 でも、穴を見ているぼくの視界の端には、もうひとつ、誰かの足が見えていたのである。


 正平とヤッスンの間である。

 そこに、別の足を見てしまったのだ。


 その足は裸足だった。

 足の甲に骨が浮き上がるほど痩せ細り、まるで、たった今、土の中から出てきたように泥にまみれていた。


 よく見ると、足の爪のほとんどが剥がれ、そこに小さな虫がうごめいている。

つま先は、ぼくたちと同じように、穴の方向を向いている。


 誰か、痩せた裸足の人間が、混ざっている……。

 ぼくは恐ろしくて、顔をあげることができなかった。


 出てきたのだ……。

 人柱となって埋められていた娘が出てきて、今、ぼくの目と鼻の先に立っているのだ。

 慎吾たちはまるで気づいていない。


 ヒロセのおじいさんの「見えたのかい?」と言う言葉がよみがえった。

 ……やはり、ぼくにしか見えないのだ。


 と、視界の端で、その足がゆっくりと移動をはじめた。

 ズリ……、ズリ……と、ゆっくりとヤッスンの後を通り、穴の縁を回りこむようにして、ぼくの右から近づいてくる。


 ぼくはうつむいたまま、視線だけでその足の動きを目で追った。

 この裸足の人物に、ぼくだけが『見えている』と知られたら、とんでもないことになると思ったのだ。


 ……どこかに行って。

 ……どこかに行って。

 ……どこかに行ってください。


 ぼくは必死に願ったが、泥まみれの素足は、ぼくのすぐ右横にまで移動してきた。

 湿った土の匂いが漂ってくる。

 その匂いの中には、何かが腐ったような臭いも混じっていた。


 恐怖で動くことのできないぼくに、またズリッと足が近寄った。

 ……も、もうだめだ。


 そう思った瞬間、ぼくは腕をつかまれ、後ろに大きく引っ張られた。

 バランスを崩し、尻餅をつきそうになる。


 「危ないって、タケル! 

 穴に近寄り過ぎだよ!」

 腕を引っ張ってくれたのは慎吾だった。


 ぼくがよろけて穴から離れた途端、今まで立っていた場所がゴソッと大きく崩れた。崩れた部分が穴へ落ちていく。

 慎吾に腕を引っ張られていなかったらと思うと、背筋が凍りついた。


 「おい、ヤバイんじゃないか!」

 「土手が崩れるかも知れないぞ!」

 穴から飛び離れた正平とヤッスンが声を上げる。


 「大人に報せに行こうぜ!」

 慎吾が自転車の停めてある場所に向かって走り出した。


 「ま、待って! ぼくも」

 ぼくは必死で慎吾の後を追った。

 正平とヤッスンもそれにつづいた。


 自転車に飛び乗ったぼくは、もう後ろを振りかえらず、前を行く慎吾の背中だけを見ていた。

 慎吾に腕を引っ張られたとき、顔が上がって、一瞬だけ、穴の方に視線が向いたのだ。


 そこには、正平とヤッスン以外、誰もいなかった。


 穴の縁に見えた泥だらけの足が見間違いだったのか、それとも、顔を上げる寸前、裸足の人が、どこかへ消えてしまったのか……。

 ぼくにはわからなかった……。


   ◇◆◇◆◇◆


 結局、堤防は崩れてしまい、増水したニビト川の水があふれ出し、いくつもの田畑が水没した。

 ぼくの家までは水はこなかったけど、クラスのタマちゃんと啓太の家は、玄関が水浸しになったと言っていた。


 土手を元に戻す工事は、始まってすぐに事故が起きて、何人もケガ人が出たと聞いた。

 人柱のいなくなったニビト堤は、もとに戻るのだろうか……。


   ◇◆◇◆◇◆


 ぼくは、A3のスケッチブックに地図を描いてみた。


 ぼくの家から、学校までの道。

 ぼくの家からニビト川までの道。

 慎吾の家も描き込んだ。


 そして、ニビト川と堤防、浦座橋を描き込み、おじいさんがいた場所に『怪』の印を入れてみた。


 これが、始まりである。


 『怪』の印はすぐに二つに増えた……。


            了


        『割れた墨ツボ』へ、つづく

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