第34話 付き合って
和やかな雰囲気。この調子でまだ疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「話を戻すんだが、俺に漫画を描かせた理由はわかったけど、なんで一番最初に日常ものってジャンル指定したんだ?」
緑青の父親は幅広く色んなジャンルの漫画を描いていたという。だから俺にももっと違ったジャンルを描かせても良かったんじゃないかと思ったのだ。緑青の好みだったのか、それとも……。
「……日常の話を描いて欲しいと思ったのは、バトルアクションものより、普段の貴方の考えていること──心の動きが反映されるんじゃないかと思ったからよ」
「なるほど」
緑青はずっと、俺が本当に考えていることを知りたがっていたのだ。改めてそう思うと、なんだかちょっと照れてしまう。前までは俺なんて眼中にないと思っていたから余計に、どきどきする。
「恋愛をすすめたは、一緒に見た映画の影響ね」
「ああ、あの映画なかなか良かったもんな」
「ええ、そうね。あれから一ヶ月もたっていないのに、随分と昔のことみたいに感じるわ」
緑青は懐かしそうに目を細めてそう言った。胸が少し痛んだ。さっきのどきどきとは違う。俺とのこの時間も、すぐに昔のことになってしまうのだろうかという寂しさが心を掠めた。
彼女は、おしまい、と言った。後は俺だけで描けと言った。本当に、これでおしまいなんだろうか。怖くて聞けなかったが、覚悟を決めなければいけない。俺は口を開いた。
「それで……、あの、おしまいっていうのは……」
言いかけて、緑青と目が合った。整った顔立ち、まだ少し赤い目元。柔らかく微笑まれ、息を呑んだ。
「勿論言葉の通り、付き合うのは終わりにしましょうという意味よ」
頭を打ち付けられたみたいな衝撃が走る。
「……元々、そのつもりだったの。貴方をずっと縛り付ける気はないわ」
「で、でも……」
「付き合う必要なんて、本当は全くなかったのに、私の考えが浅くて迷惑をかけてしまってごめんなさい。……必死だったの。一緒にいる時間をどうにか確保したくて」
鮮明に蘇る。教室に鈴を転がすような凛とした声が響いて、一瞬にしてクラス全員の視線が一点に集中したあの日。
平凡な俺の日常が崩壊した日。俺にとって、ドキドキの連続で眩しい日々のはじまり。
「緑青の気持ちは、わかった。それで、その、相談なんだが……」
「なにかしら」
俺は小さく深呼吸をし、まっすぐ緑青を見据えた。
「緑青、今度は俺からお願いするよ。俺の漫画作りに、付き合ってほしい」
あ、そういえば緑青はお願いじゃなくて強要だったな、なんて思い返す。俺の言葉に、緑青はぱちぱちと瞬きし、それから目を泳がせた。動揺しているみたいだ。
「……わ、私に手伝えることなんて、ないわよ?」
緑青は俯いてしまった。いつもの堂々とした態度からは想像もつかない、自信なさげな姿。
「それでもいい。完成するまで、見届けてほしい」
「……脅さないの?」
緑青が顔を少し上げて尋ねた。自然と上目遣いになり、大きな瞳が不安そうに揺らぐのを見て、俺はちょっと危ない気持ちになりそうだった。好きな子をいじめてしまう心理が少し理解できた。
「残念なことに、俺には手札が何にもないからな」
不安を拭うように、俺はお手上げのポーズをしてみせた。それを見て、緑青は小さく吹き出した。
「ふっ……ふふ、いいわ。……見届けてあげる」
「なんか、偉そうだな」
「……言うようになったじゃない」
これからもよろしく、と言うと緑青はしょうがないわね、とまた笑った。
俺と緑青の恋人……と呼べるかもよくわからない関係は今し方解消した。
代わりに、新しい関係をこれから築いていけたらいい。
「……でも、本当に凄いわ。この漫画」
緑青はペットボトルを机に置き、代わりに俺のノートを手に取った。
「褒めたってなにも出ないぞ」
顔がにやけそうになるのを必死に抑えながらそう言うと、緑青は急に寂しそうな顔をした。
「私には、描けないもの。あのね。私、人を好きになったことないの。……いいえ、違うわ。ならないようにしてきた、というのが正しいわね。……それはね、怖いからなのよ」
自分のせいで、失ってしまうのが。と緑青は付け足した。
親父さんのことか、と思い当たる。
緑青のせいじゃない、と言いたい。でも、それを言う資格は俺にはないと思う。なにも知らないからだ。知らないくせに適当な慰めの言葉をもらって、果たして彼女は喜ぶだろうか。いや、そんなわけない。
「いろいろ上から物を言って、ごめんなさいね。私には、黒石くんのことを気持ち悪いなんて言う資格ないのに」
「……俺、じゃなくて、前の俺の笑顔だろ」
その言い方だと、まるで今の俺自身が気持ち悪いみたいじゃないか。
俺の反論に、緑青は小さく吹き出した。
「ふふっ、そうね。訂正するわ。ごめんなさい。……私も、随分と受け狙いな生き方をしてきたものだわ。いなくなった父を、そんな父を選んだ母を、そしてその二人から生まれた私自身を悪く言われるのがどうしても嫌で、見返してやりたくて、その為だけに頑張った。私が良い成績をおさめれば、賞を取れば、祖父母も親戚も機嫌が良くなったから」
緑青がなんでもできるのは、才能だけのおかげじゃない。努力があったからなんだ。
きっと、あいつ──俺のプライドを折った天才も俺以上に絵を描くのが好きだったんじゃないだろうか。見えないところで努力していたんじゃないか。それを俺は知らなかったし、知ろうともしなかった。
「特別、と貴方は言ってくれたけど、自分ではちっともそう思えない。私はただ高飛車に振舞うことで虚勢を張る、意地っ張りで嘘つきな、変な子だもの」
緑青はそう呟いて立ち上がった。その姿になんだが妙に胸を締め付けられた。まだ外は明るいのに、まるで夕闇に飲みこまれるような感覚を覚える。緑青の華奢な体は、不安そうで、心細そうで、親の帰りを待っている子供のようで……。
「帰りましょうか」
その声にハッとして、我に帰った俺は、ノートを鞄にしまった。
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