第9話 恋愛経験
白井が出て行った後、緑青はふーっと息を吐いた。
「やっと帰ったわね」
「辛辣すぎないか? 親戚なんだろ」
「そうかしら」
喧嘩でもしているのだろうか。俺が口を挟むことではないにしても、今後もまたピリピリと張り詰めた空間に居合わせるのは嫌だなぁと思う。
「あれから漫画は進んだの?」
「……あんまり進んでない」
「そう。じゃあ頑張って。私は勉強をしているから何かあったら聞いてくれて構わないわ」
そう言うと緑青は参考書を机の上に広げた。俺もノートを広げる。
国語資料準備室は冷房が効いていて涼しい。それにとても静かだ。時折微かに運動部の掛け声がするくらいで集中するにはもってこいの環境だった。
しかし俺の筆は進まない。恋愛漫画は結構読んでいるし王道バトル漫画にもラブコメ展開は必ずと言って良い程ある。
でも読んだことがあるからって描けるとは限らない。俺はちらりと緑青を盗み見た。相変わらず姿勢が良い。すごいスピードで問題を解いている。さすが秀才。
ついついその姿に見惚れてしまったが、頭を軽く振ってリセットする。行き詰まったのなら相談させてもらおう。聞いていいと緑青自ら提案してきたのだし。小さく深呼吸をした後口を開いた。
「あのさ、ちょっと相談なんだが」
「……何かしら」
緑青は顔を上げると頰に垂れていた髪を耳にかけてこちらを見つめた。
「恋愛漫画ってどう描けばいいかわからないんだ。なんでもいいからアドバイスが欲しい」
「……アドバイス」
彼女目を瞑り手を口元に当てて考え込み、何か閃いたのか目を開けた。
「あなた、好きな人っていないの?」
「はぁっ!?」
急な質問に動揺した俺はガタッと椅子から立ち上がる。それを見て緑青がくすくすと笑った。
「質問を変えるわ。恋をしたこと、あるかしら?」
「な、なんでそんなこと……」
緑青に言わなきゃならないんだ。
むっとして睨むが緑青は痛くもかゆくもないとばかりにすまし顔をしている。
「実体験を元に描くのが一番手っ取り早いと思ったのだけれど」
確かに一から設定を考えるよりは楽だろう。でもそれって恋愛経験が豊富でないと難しくないか?
「それで、どうなの?」
ないことはない。俺にだって恋の一つや二つ経験がある。
「まぁ、好きだった奴くらいいるけど」
「そう、ならその経験を描けばいいじゃない」
「……」
ただの片思いで告白すらしていないというのに何を描けばいいというのか。大層おモテになる緑青には俺の気持ちなんてわかるはずない。振られるかも、なんて不安に思ったことはきっと一度もないのだろう。
「何かしら?」
緑青は俺が何も言わないのが不服らしい。
「緑青はどうなんだ」
自分の経験ではとてもじゃないが描けそうにない。緑青なら経験豊富だろう。これまで沢山の男に告白されたはず。是非とも参考にさせていただきたい。
「あらやだ。私の恋愛経験が知りたいだなんて、いやらしい」
「いっ」
いやらしいって、ただアドバイスをして欲しかっただけなのにひどい言い様だ。訂正してもらいたい。
「俺は漫画の参考になると思って聞いただけだ!」
「わかっているわ」
冗談が通じないのね、と笑われた。くそ、馬鹿にして……。
「付き合ったのは、あなたが初めてよ」
「な……っ」
不意打ちだった。嘘か本当なのか、わからない。でも柔らかく微笑む緑青はとても綺麗で、胸がざわついた。
「どうしたの? 顔が赤いわよ」
「……くそ」
遊ばれている。一瞬でもときめいてしまった俺の負けだ。
緑青から目をそらし、机に向かう。目を閉じると先程の笑顔がフラッシュバックしてまた顔に熱が帯びるのを感じた。
「あなたはどうなの?」
「え?」
「恋愛経験」
「……俺だって、付き合うのは初めてだ」
ノートを見つめながらそう答える。緑青がどんな顔をしているのか見れない。そもそも、付き合うってなんだ。俺たちは一応付き合っていることになっているみたいだが、二人の間に恋愛感情はない。
ないはずだった。
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