第31話 信じたかったから

「あ、そうだ。これ、ありがとう」


 借りていたタオルハンカチを鞄から取り出す。母親に、もしかして彼女? と誤解されて大変だったのは秘密だ。


「どういたしまして」


 受け取る緑青の手は、白くて細い。俺の手と全然違う。触ってみたい、なんて考えてしまったのは、夏の暑さのせいだろう。


「さて、主人公の名前をどうするか、話し合いましょう」

「苗字は、身近な、親しみやすいよくあるのでいいんじゃないかと思う。鈴木とか」

「そうね」

「でも下の名前はちゃんと考えないとだよな」

「貴方、友達いないの?」

「いるけど」


 急に何を言いだすんだ。そりゃ、俺にだって友達ぐらい……。いや、真に友達と呼べる存在はいるだろうか。


 黄瀬がいる。なったのはつい最近だけど。じゃあ高砂は? いい奴だしそれなりに仲は良いと思う。


 でも今まで上辺だけで生きてきた俺は、つまるところ本音を話せる相手なんていなかった。そこまで人と深く付き合ってこなかった気がする。


 でも、これからは違う。高砂を友達だって胸を張って言えるようになりたい。


「黙りこくって、どうしたの?」


 心配そうに顔を覗き込まれる。


「な、なんでもない」

「なら、いいんだけれど」

「……高砂亮平」


 嘘から出たまことってことわざがある。だからそうなるように祈りながら。


「亮平。いい名前ね。その名前をお借りしたら?」

「えっ」

「素敵な名前だから参考にするのよ。そんなに咎められることかしら。気になるなら……そうね、亮。鈴木亮ってどうかしら」

「……鈴木、亮」


 悪くない。いいと思う。俺はすかさずノートに書き写した。


「次はヒロインね」

「……それなら、黄瀬菜乃花を参考にしたい」


 友達で尊敬できる人。


「黄瀬菜乃花……可愛らしい名前ね」

「それと、緑青の名前も参考にさせてほしい」


 友達、ではない。彼女……と呼んでいいのかわからない。でもな人。


「えっ……。べ、別に構わないけれど……」


 緑青は目を泳がせ、顔を赤らめた。照れているようだ。でも了承してくれた。


「ありがとう」


 俺は二人の名前をノートに書き、組み合わせる。


青瀬藍花あおせあいかって、どうだろう」

「いいんじゃないかしら」


 決まりだ! 小さくガッツポーズをする。


「……これで後は、原稿用紙に清書するのみね」

「そうだな。これからも頼むよ」

「いいえ。もう、おしまい」


 え? 緑青の発言に耳を疑う。おしまいって何が?


「この後は、黒石くん。貴方だけで描くの」


 突き放されたように感じ、動揺してしまう。なんでそんなことを言うのか。目の前の緑青は眉を下げ、困ったように微笑んでいる。


「な、何言って……」

「だって、この漫画は貴方の作品だもの。私の作品じゃない、合同作品でもない。私は批評するだけ。私が関われるのは、お話作り──ここまでなの」


 それは、そうかもしれない。だからって納得できない。


「で、でも……!」

「こんなにはやく描き上がるなんて、思わなかったの。だから、びっくりした。ううん、最初から私は黒石くんに驚かされてた」

「何の話だよ……」


 おしまいなんて、受け入れられない。だって、漫画を描いて見せろと言ったのは緑青だ。付き合えって言われて、ノートを人質に取られて、だから嫌々放課後集まることにして。


 でも、楽しかった。わくわくした。これからだってもっと……。それなのに。


 緑青は申し訳なさそうに俯いた。


「そうね。ちゃんと、話さなければならないわよね。どうして私が貴方に付き合って、なんて、漫画を描けだなんて言ったのか。その理由を」


 聞きたくない。でも聞かないといけないのだろう。


 ずっと疑問だった。あの日、初デートで聞かされた“気になったから”という理由じゃ、本当は納得できなかった。


 だって、俺の漫画である必要性はなかったから。ノートに落書きレベルの漫画を描いてる奴なんてきっと他にもいただろう。でもそれ以上聞くのをやめたのは、俺だ。


 心のどこかで、と思いたかったから。自惚れだとわかってても。その可能性を捨てきれなかった。信じたかったから。


「納得してもらえるか、わからないけれど。聞いてほしいの」


 弱々しい彼女の声に俺は頷くことしかできなかった。


 そして、彼女は語り出した。


 

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