第46話 ただいま

「「あ」」


 白井と緑青が見つめ合い、声が重なる。


 わずかな沈黙の後、緑青は、何で貴方がここにいるの? と冷たく言い放った。苦虫を噛み潰したような表情。眉を顰め、唇を噛んでいる。


 白井が嫌いだから、不快だから、そうしているではないと俺にはわかる。彼女が疎ましく思っているのは……。


「……なぁ、緑青」


 気がつくと俺は二人の間に割って入っていた。


「な、何かしら?」


 緑青の澄んだ瞳が微かに揺れる。緑青のこと、ずっと見て、考えていたから、わかる。


「白井のこと、本当は嫌ってないだろ?」


 大きな目が見開かれ、はっきりと動揺の色が滲んだ。やっぱりな、と思う。


「無理して、あたかも嫌っているように見せている。苦手なんだと思わせているようにしか、俺の目には見えない」


 緑青が息を呑んだ。無言が何よりの肯定だった。扉についていた手が握り締められ、微かに震えている。正直、好きな人にこんな顔はさせたくなかった。でも、それでも、必要なことだった。


「……だ、だって」


 絞り出すような、か細い声。一言一句聞き逃さないよう、耳を澄ませる。それはきっと白井も同じだったと思う。


「今更、手のひらを返すようなこと……出来るわけないじゃない!」


 悲痛な叫び。その声も潤んだ瞳も赤い頬も、小さな子供のように純粋で、必死だった。


「私は……お父さんのこと、散々八つ当たりして、無視して、酷いことをしたの。それで、今になって許して欲しい、また昔みたいに仲良くしたいだなんて勝手すぎるもの! だから私は嫌ったまま、ようちゃんには嫌われたままでいいの。ようちゃんは、私のことなんて放っておいて、自分のことだけ考えていればいいの……いっそ、突き放してくれれば……どんなに」


 そう言い終わると緑青は項垂れた。髪が影になり彼女の表情を隠す。俺の後ろから白井がゆっくりと緑青へ近づいていくのを、俺は見つめていた。


「……藍ちゃんのこと、嫌いになれるわけない。わかってるでしょ?」


 白井は屈んで目線を合わせる。優しい声だつた。


「だ、だけど……」

「甘えていいんだよ。その方が、僕は嬉しい」

「……自分だけじゃ抱えきれなくて、ようちゃんを悪者にして、自分の心を軽くしようとしてたのに? 許してくれるの?」

「うん」

「……許さないでよ」

「いや、可愛い姪っ子のしたことなんていくらでも許すよ」

「ばかじゃないの? ……謝るのは、自己満足にしかならないって思ってた。でも、言わせて欲しいの」

「うん」

「……ようちゃん、ごめんなさい」


 緑青が白井に抱きついた。白井は彼女の背に手を回し優しく撫でた。まるで子供をあやす、父親のようだった。


 そのうち嗚咽が聞こえ、緑青が泣き出したのがわかった。


「……た、だい、ま」

「おかえり、藍ちゃん」


 あの時、緑青から感じた不思議な、胸を締め付けられるような感覚が消えていくのを感じた。


 親の迎えを待っているような、寂しくて堪らないというような彼女の表情。きっと、ずっと仲直りしたかったんだ。白井のもとに、帰りたかったんだろう。


 それと同時にはっきりとわかってしまった。


 俺は多分、一生白井には敵わないこと。


 白井と緑青、この二人の間にはそれはそれは強い絆があること。


 でも、それが何だっていうのだろう。


 人の気持ちに、関係性に、勝ち負けを見出したって仕方がない。大切なものはいくつあったっていい。緑青が幸せなら、それが一番だ。


 不思議と悔しいと思わない自分に驚かされる。なんだか、随分と達観しているな俺。


 そっと、国語資料準備室を後にした。


 親子ではないけれど水入らず。二人きりにしてあげたかった。





 ずっと変だとは思っていた。


 緑青の白井を嫌う様が、ただ相手を憎むというより、己を憎んでいるように見えたから。


 何より思いやりがあって、気丈なように見えて本当は人並みに脆く繊細な彼女が、あんな風に誰かを睨み、悪態を吐くのは違和感しかなかった。どう考えても、おかしかった。


 だから緑青の言葉で、すとんと腑に落ちた。


 謝って許してもらおうとすることはとても卑怯なことだと彼女は思っていた。したことは消えない。白井という人間を知っていればいるほど、その情に訴えるのはひどく浅ましく思えたのだろう。


 だから、いっそこのまま嫌われることを選んだ。


 そして彼女は、白井を……彼を憎む自分自身を何よりも嫌悪していた。嫌悪し、自戒し続けるつもりだった。


 そして今やっと、解放された。


 子供のように泣き出した彼女を、俺はとても愛しいと思った。

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