第25話 寝起きと寂しさ
三十分が経過したが緑青は起きない。昇降口の施錠がされてしまうまで残り約二十分といったところか。
男子だったら躊躇なく揺すって起こすところだが相手は女子。無闇に触ってセクハラを疑われるのは御免だ。本当の彼氏彼女だったらなんの問題もないのにな、とひとりごちる。
「緑青、起きろ」
少し大きめの声を出すが駄目みたいだ。小さく寝息を立ててぐっすりご就寝のご様子。
「よ……」
よ?
「……ようちゃんの……ば、か……」
蚊の鳴くような声で彼女はそう呟いた。
寝言? ようちゃんって誰だ。それに馬鹿って……。
そういえば寝言に返事をするのは危険だと聞いたことがある。都市伝説なのか科学的根拠があるのか不明だが今声をかけるべきではないかもしれない。とはいえ自然に起きてくれる様子もなく時間は刻々と過ぎていく。
最終手段でスマホのアラームを耳元で鳴らしてみた。
ピピピピピピピ
「う……ん」
目をトロンとさせてぽけーっとしている。寝ぼけているようだ。なんだか幼子のようで可愛い。ゆっくりと首を動かし周りを見渡している。
「ここは……どこ? 朝……?」
「ぶっ」
思わず吹き出してしまった。普段の凛とした姿とのギャップが激しい。
「う? ……」
だんだんと目が見開かれ、ぼんやりとした表情がシャキッとしたものへ変化していく。やがて自身の置かれた状況と犯した痴態を悟り、みるみる顔が紅潮していった。
「……忘れて」
いや、それは無理な相談だ。
さっきの気の抜けた姿はそうそうお目にかかかれるものじゃない。いつも揶揄われてばかりいるんだ。ちょっとくらい仕返ししたっていいだろう。俺はにやついた顔を隠さなかった。
「忘れなさい」
口調が強くなり、ふるふると華奢な肩を震わせている。なんだか愉快になってきた。
「忘れなさいと言ってるでしょ!」
寝起きだからか目を潤ませて耳まで真っ赤にして叫ぶ姿はあまりにも必死で、とても完璧とは言い難かった。
それがなんだか嬉しくて、余計顔がにやけてしまう。
「……これ以上笑ったら許さない、から」
「……え?」
あれ? なんか流れ変わった……?
「立場をわきまえなさい」
「……は、はい」
久々に現れた女王の風格に圧倒され萎縮してしまう。ちょっと調子に乗り過ぎたかもしれない。
「忘れるわよね?」
にっこりと威圧的に微笑まれる。イエス以外の答えは許さない、そう顔に書いてあるようだ。
デジャヴを感じる。初対面の時と同じだ。懐かしい。機嫌を損ねられても困るので従うことにする。
「はいはい。忘れますよ」
「はいは一回」
「……はい」
「よろしい。それにしても迂闊だったわ。どうして寝てしまったのかしら」
「疲れてたんだろ」
緑青の座っている机の横には大きめの紙袋が置いてあり、中にはピンクや白、紺色の布が入っている。ウェイトレスの衣装だ。きっと頼まれて持ち帰ってから作るつもりなんだろう。
俺の目から見てもその量は少々異常だった。一人に割り当てられる量にしては多すぎるのではないか。
緑青は俺がじっと紙袋を見つめているのを察したのか荷物をまとめ黙って立ち上がった。
「帰りましょう。施錠時間も近いし。急がないと」
「そ、そうだな」
俺も立ち上がる。
なんだかモヤモヤしたが聞くのはやめた。詮索されたくない、という意思を感じたからだ。
扉を閉めようと緑青が鍵を鞄から取り出したので、俺は黙ってその鍵を奪った。
「何をするの」
「俺が返しにいく」
「……そう。じゃあ、お願いするわね」
「まかせろ。まっすぐ帰れよ」
「……明日」
「ん?」
「明日は、ここを寄れそうにないわ」
その言葉に、思いの外ショックを受けている自分がいることに驚いた。予想していたことだというのに。
「……わかった」
「私、行くわね。さようなら」
「おう」
「あ……それと、起こしてくれてありがとう」
感謝の言葉は不意打ちだった。頰が熱を帯びるのを感じ、慌てて否定するように顔を横に振った。
緑青が去った後、鍵をかけ閉まっているか再度確認した。大丈夫、ちゃんと閉まってる。
知らない間に緑青の存在が俺の中で大きくなっていることを改めて実感する。
明日活動がないことが、緑青と会えないことが、寂しいなんて。
でも、これでいいと思う。活動の回数を減らすべきなんじゃないかって、ずっと頭の隅で考えてはいた。バレたのが黄瀬だったから噂にならずに済んで、俺の平穏は守られた。
だがもし、例えば松来だったら? あっさり友達に話して、その友達が他の奴に話して、噂はどんどん広まったはずだ。
もし渡辺だったら? 渡辺は緑青に振られている。プライドを傷つけられた彼は俺に対して良い感情は抱かないだろう。文化祭の準備に悪影響を及ぼしたかもしれない。
俺は危ないとわかっていながら綱渡りをしているんじゃないのか?
このスリルを心のどこかで楽しんでいるんじゃないか?
平凡な人間として地味に生きる、それが俺の理念だったのに。それを第一にしてきたのに。揺らいでいるだなんて、情けない。
俺は鍵をぎゅっと握り込み、職員室に向かって駆け出した。施錠時間まであと十分。
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