第37話 不安と疑問

 いよいよ夏期講習前半の最終日。今日が終わればお盆休みだ。


 俺は昨日の夜更かしが祟って少し寝坊をしてしまった。慌てて教室へ駆け込む。遅刻にはならなかったが、いつも以上に汗をかいてしまった。冷房の風が寒い。


 俺が寒い寒い、と譫言のように呟いていたら高砂が部活で使う大きめのタオルを貸してくれたので肩にかける。高砂はやっぱりいいやつだ。お礼にジュースでも奢ってやろう。


 講習が終わると次は文化祭準備だ。お盆の間は準備も中断となるため、今日で一区切り。みんな出来るところまで進めようと一生懸命だ。


 なかでも渡辺は誰よりもきびきびとよく働いていた。一方俺は黙々と、迷路に使う壁に色を塗っていた。松来と何度か目があったが、話しかけられることはなかった。


 準備が終わった後、俺は約束こそしていなかったものの、国語資料準備室へと向かった。


 緑青がもしかしたらいるかもしれない、と少し期待しながら。


 だから扉を開けて、椅子に座っている緑青と目があった時は飛び跳ねてしまいそうになるくらい嬉しかった。胸が躍る、とはまさにこのことだと思った。


「ど、どうしてここにいるんだ?」


 照れ隠しに尋ねる。なんだか少し緊張してしまう。


「一人で、静かに作業したかったから」


 そう答え髪をさらりとかきあげた緑青の机には、裁縫道具とフリルの付いたカチューシャが置かれていた。喫茶店の衣装だ。


「黒石くんこそ、どうしてここに? 連絡がなかったけれど」

「あ、その……別に漫画を見せたいとかじゃなくて、ただ……」

「ただ?」


 会いたかったから。


 その一言を、俺は言葉にできなかった。


 本人を前にして、昨日よりもずっとはっきりと、自覚してしまった。


 ずっと前から薄々気がついていた。でも、知らないふりをしていた感情。緑青藍が好きだということを。


 俺を見つめる大きな澄んだ瞳も、長く指通りの良さそうな髪も、抜けるように白い肌も、細い手足も、完璧超人に見えて本当は人並みに弱く幼いところも、澄ましているようでいて本当は優しいところも。


 全部が、こんなにも愛おしい。こんな気持ちは、生まれて初めてだった。


「だ、大丈夫? 黒石くん。立ってないでこっちに座ったら?」


 緑青が立ち上がり、俺の元へ近づいて来る。


 俺の名前を呼ぶ、君の声が好きだ。


 でも、どうしたらいい?


 こんな気持ちを自覚してしまって、どんな顔をすればいい? どんな言葉を紡げばいいのだろう。どう接していけば、正解なんだろう。


 今までどうしていたか、わからなくなる。これからどうしていけば良いのかも、わからない。


 ぐるぐると、昨日原稿用紙を埋め尽くした試し書きの線が脳裏に浮かぶ。不安が全身を支配しているみたいに、動けない。


 緑青は俺の前に立つと、顔を伺うように見上げてきた。ごくりと生唾を飲み込む。


「……大丈夫だ。ちょっと、夏バテ気味みたいで……」

「それはいけないわ。ちゃんと寝ているの? 昨日、頑張りすぎたんじゃないかしら」

「ああ、そうだな。今日はもう帰るよ」

「そ、そう……気をつけてね」

「平気。帰ったらすぐ寝るよ」

「なんだか、子どもみたい」


 可笑しそうにくすくすと笑う緑青。その顔も堪らなく好きだ。


 緑青に見送られながら国語資料準備室を出て、階段を降りていく途中、白井に会った。小さな声で挨拶して、そそくさと通り過ぎようとしたのだが腕を掴まれてしまった。


「黒石くん、顔色があまり良くないよ」


 白井の顔をぼんやり見ながら思った。


 そういえば、なんで緑青は白井を嫌っているのだろう、と。ずっと気になってはいた。でもなんだか聞くに聞けなかった。


 白井は俺を保健室まで連れて行ってくれた。まだ日差しが強いから少し休んで、もう少し涼しくなってから帰ったほうがいいと言われ、それもそうだと思った。保健の先生がいなかったため、白井が体温計を用意してくれたり、冷たいタオルを頭に乗せたり、世話を焼いてくれた。


「じゃあ、僕は戻るよ」


 白井がベッドのカーテンを閉めながらそう言ったので急いで引き止める。


「ま、待ってください」


 折角二人きり。先ほど浮かんだ疑問を解消するには丁度良い機会だった。


「こんなこと、俺が聞くのも変だと思うんですけど、どうして緑青は……先生のことを嫌って……いや、その、冷たい態度をとるんですか?」


 俺の質問に、白井は明らかに動揺していた。


「えっと、……もしかして黒石くん、藍ちゃんからお父さんのこと聞いた?」

「……はい」

「じゃあ、話しても大丈夫かな」


 白井はカーテンを開けて俺のベッドの反対側のベッドに腰をかけた。

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