44 透明

 静かな車内で、温奈は黒い子猫と一緒に山の洞窟の中で埋めた子供を思い出した。あの洞窟は非常に良い死体の隠し場所だ。それに『妹』もあの洞窟の中で埋めれば、あの子も寂しくなくなるんじゃない?


 見慣れた道を通ってハマーを山のほうに向かわせた。今回は視線が暴風雨に影響されることなく、山道はかなり進みやすくなった。でも片手でハンドルを握っている温奈は車を飛ばす勇気はない。夏朦の容態を気遣う余裕もないから、温奈にはその声を殺して泣くことは暫く止まらないだろうと推測するしかない。


 現実世界の暴風雨はとっくに止んでいたけど、夏朦の心の中の暴風雨は永遠に止むことはないだろう。


 温奈はどうしてこうなったのかを何度も考えた。運命の女神は平凡な幸せすら彼女たちに施してくれない。結局、彼女たちは運命の女神の掌で弄ばれている。滑稽なピエロのように必死で人を笑わせる茶番劇を演じている。


 山道は険しい。温奈はトランクの中で死体が転がる音が聞こえる。ナイフが抜けないといいな、でないと後片付けが難しくなると温奈は思っている。右手の傷はしくしく痛むから、後で死体を上手く埋めないかもしれないということを心配し始めた。さらにこの後もまだ暫く歩かないといけないから、温奈は本当にあの子より背が高くて体重も重い『妹』をあそこまで運べるのか?右手を怪我しているこの状況で?


 自分の怪我と実行可能性を考えた後、温奈は道端を気にし始めて、どこかに死体を突き落とせる適切な場所があるのかを探していた。残念ながら良い場所は見つからず、そのまま山頂まで走らせて車を止めた。


 温奈は振り向いて夏朦のほうを見た。涙塗れの元気のない顔は温奈の目に映った。何か言いたそうにしているようで、その唇は震えてうまく声に出せなかった。


「ゆっくりでいいから、ちゃんと聞いてるよ」

「奈奈……どうして……どうして私が『妹』を殺したの?」


『妹』という単語を口にした時、夏朦はほとんど狂いそうなほどに壊れていることがわかる。温奈は同じように血に染まっている手で夏朦の手を握った。慣れというのは恐ろしいもんだ。最初の驚きと悲しみを除いて、今の彼女はかなり冷静になった。二人の手が染まった同じ赤色が魅力的とすら思える。


「あなたせいじゃない。あなたは悪くない。早めに彼女を止められなかった私が悪い。あなたはただ私を助けたいだけ。私が全部片付けるから、待っててね。怖いなら目を閉じて百まで数えよう。そして目を開けた時に私はもう戻っているから」


 夏朦は言われたように目を閉じた。温奈は最愛の人が彼女に全面的な信頼を寄せているのを笑顔で見ていた。その後、温奈はドアを開いて車を降り、崖っぷちまでに歩いて崖の下を見た。底の見えない深淵というわけではないが、険しい崖は海岸の崖に劣っていない。その下には密林が次の山稜まで生い茂っている。ここは登山客があまり来ない無名の山で、気付かれる心配はない。


 温奈は試しに右手を握り締めた。まだ完全に回復しきっていないが、何とか役に立てそうだ。温奈は防水シートを外して、『妹』の両脇の下から手を入れて持ち上げた。そして、その死体をずっとトランクに置きっぱなしの台車に乗せて、崖っぷちまで運んでそのまま突き落とした。


 ナイフは未だにその胸に突き刺さったままだった。夏朦が刺した一回目の突きと、彼女がナイフの刃で傷を塞ぐための二回目の突き、「妹」は彼女たち二人で殺したと言ってもいい。


 今回温奈は事後になってから慌てて駆け付けたのではなく、ようやく女神の犯行に参加できた。もう最後の後始末役だけではなく、命を収穫するその瞬間を見届けた。


 犯罪なのに、どうして温奈は至上の喜びを感じているのか?

 温奈がまた夏朦との共通点を見つけて、女神にさらに近づけたから?

 決断をするこの日にこんな悲劇が起きて、夏朦が永遠に温奈から離れなくなったから?

 夏朦が温奈を助けるために『家族¬』を殺して、温奈の重要性を示したから?

 それとも温奈はとっくに愛に狂っているから?


『妹』はそのまま転び落ちて、樹海の抱擁に投げ込まれた。温奈は『妹』の来世は人間に生まれ変わらないことを願った。そしたら彼女は自分の実の父親がクズだと悩ませることなく、彼女とその母親がもう一つの幸せの家庭を作れようと、自分の母親がもう一人の男に頼る必要があるのかを心配することもない。さらに新しい父さんがある日心変わりで彼女たちを捨てるのではないかを怯えずに済むだろう。


 可哀想、すごく可哀想だ。『妹』もただ幸せが欲しいだけで、可哀想な子供だ。しかし、『妹』は間違った選択をした。夏朦を脅迫することで自分の幸せを確保しようとして、怒りに彼女自身を地獄まで連れていかれた。


 温奈は小さい人影が完全に姿が消えたのを見送って、台車をトランクに戻して、ドアを開いて運転席に戻った。夏朦はちょうど百まで数えて、ゆっくりと目を開いた。温奈は微笑みながら「ただいま。ほら、嘘じゃないでしょ」と言った。


 泣いている夏朦はうなずいた。身を寄せて温奈にすごく軽い抱擁をした。この時に温奈はやっと夏朦の首回りから出るクチナシの香りに気付いた。その香りに含んだ意味は、温奈が過去から現在まで固く守り続けて、そして未来まで固く守ろうとする信念だ。


 一生の守り。

 彼女は自分の一生を使って、彼女の女神を守りたい。


「奈奈、戻るついでに、また血桜に見に行ってもいい?」

「いいよ。何回見てもいいよ」

「もう三月末だし、花の時期も過ぎそうだ。最後に一度だけ見ればいい」

「わかった。じゃ一回でいい。来年あなたがまだここにいるのなら、また一緒に桜を見に行こう」


 来年……か?そう言えば、温奈はまだ夏朦の決断を知らない。夏おじさんに送ったあのメッセージに何が書いてあるのか?


 本当は理性的に考えれば温奈は夏朦の要求を断らなければいけない。彼女たちの服は血まみれで、両手を血で赤く染めている。店内の片付けもまだ残っている。でも、その『奈奈』という言葉は普段よりも甘くて、その花の香りが温奈の鼓動を乱した。温奈は断ることはできなかった。


 今回の坂道は夏朦だけが大変ではなく、温奈も疲れを感じている。小さな丘のてっぺんにある血桜がまるで空の彼方にあるように遠く思えて、何度休んでもその幻の純白がまだ見えない。


「腕は……大丈夫?」夏朦は心配そうに温奈のぶら下がっている右手を見た。

「うん、だいぶ良くなった」疲れてはいるが、温奈は笑顔をひねり出して夏朦に安心させようとした。


 夏朦は自分から手を伸ばして温奈の左手を繋ごうとしたが、手についた血に気付いたのか、少し戻した。温奈は逆にその躊躇っている小さい手を握った。二人の手についた血はとっくに乾いた。違う感触を持つはずの二人の肌も、今は乾いた血のおかげで似たような感触になった。


「もう少し頑張って、もうすぐ着くはずだから」


 話した傍から、一枚の雪色の花びらが風と共に飛んできた。夏朦は空いた手を伸ばして受け止めようとした。そよ風は夏朦の渇望を気付いたように、軽く吹いてその花びらを夏朦の掌に送り届けた。夏朦は血痕の中の無垢を見つめていて、顔を上げて彼女に微笑んだ。「うん、もうすぐだね」そして腕を伸ばして、花びらを風に乗せてその旅を続けさせた。


 二人は互いの手を強く握っていて、一歩ずつゆっくり登ってゆく。速度は遅いが、一歩ずつ着実に地面に踏み込んでいる。温奈は時々振り返って、涙のせいで色褪せた夏朦はちゃんと後ろについているのかを確認している。幸い振り向くたびに夏朦はそこにいる。温奈もまた血痕とクチナシの香り、手の感触で相手の存在を確認できる。


 血桜がやっと二人の目に映った時、彼女たちはまるで夢の中にいるようだ。それぞれの蕾はすでに目覚めていて、小さな花を咲いている。梢はまるでふわふわの雪に優しく覆われていたように、風と共に揺らいでいる。温奈がこのような桜吹雪を見るのは初めてではないが、地面を覆いつくす雪色と彼女たちを包んだ桜吹雪の中で、夏朦の手がまだしっかりを掌に握っていなければ、彼女はきっとこの幻想的な景色に魅了され、自分は夢の中にいると勘違いするだろう。


 彼女の女神は突然彼女の手を離して、血桜のほうへと歩いた。顔を上げる瞬間に透明の涙が流れ落ちて、散りゆく桜の花たちのために泣いている。彼女はその淡泊な姿をじっと見つめている。涙の一粒一粒が静かで、まるで黙って夏朦の弱った心と生命力を連れ去っているようなものだ。桜吹雪の中に立っている夏朦も、散りゆく桜の花たちと共に消えてなくなりそうだ。

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