05 暴雨

 昨日たくさん酒を飲んだからか、朝、温奈は夏朦の部屋のドアでノックしてしばらく経ってから反応があった。声を聞く限り明らかにまだ睡魔と戦っていた。温奈も夏朦をもう少し長く眠らせてあげたくて、あるいはいっそのこと彼女の部屋のドアを開けて、あのいい香りがする柔らかい布団で夏朦と同じ夢を分かち合いたいとも思っていた。


 しかし、今日は定休日ではないし、店を開けて常連さんたちが来るのを待たなければならない。


「先に朝食を作るから、ゆっくりしていてね」

 温奈は自分の意味を正確に伝えるために、ノックの代わりにドアに向かって夏朦に話しかけた。

「うん……」


 実は、温奈は朝目覚まし時計で起きたり、自然に起きたりしたわけではなく、暴風雨に起こされたのだ。雨が軒先へ激しく降り注いだせいで、アラームが鳴る前に起きてしまった。夢の中で楽しそうに笑っている夏朦と離れ離れにさせた空気の読めない天気に対して心の中で文句を言った。


 でもやっぱり夢だった。夏朦があんなに幸せそうな顔をして、自分の手をつないで、かわいい小さな家と花畑がある田舎道を一緒に歩いていることは夢の中だけにある。


 夢の中で二人はヨーロッパを旅行したのだろうか?


 階段を下りながら、彼女はそう思った。何を話したのか思い出せないが、それは重要ではない。悲しみが取り除かれた笑顔と、握りしめた手がそばにあって、夏朦はどこにも行かず、ずっと自分と手をつないでくれるなら、それだけでとてもとても幸せな夢なのだ。


 温奈は夏朦を海外に連れて行きたい。一緒に世界各地の美しい景色を見たい、夏朦が好きそうな食べ物をもっと探したい、見たこともない植物を知りたい、とずっと思っていた。今は二人暮らしだが、もし海外に行くことができたら、自分の夢の中と同じく、純粋に「二人だけ」になれるだろう。


 鉄のシャッターが上がると、暴風雨が帳のように店全体を覆い隠した。この天気がこの時期では普通だったのだろうか?


 温奈はガラス扉の前で曇った景色を見て、じめじめした湿気に少しイライラし、まるで外の激しい雨が自分の体を叩きつけているような言いようのない不安を感じた。そして、彼女は不安の理由が見つからず、逃げるようにキッチンに戻ってきた。


 この暴風雨に自分の気持ちが左右されるのなら、今日の夏朦の落ち込みようは想像に難くない。冷蔵庫から卵とパプリカとチーズを取り出し、夏朦の朝食用にカラフルでおいしいオムレツを用意しようとする。


 しかし、オムレツや他の料理、ましては自分自身も夏朦の気持ちを明るくすることはできないだろう。夏朦の小さな体が抱えている大きな痛み、あまりの感情に耐えられない人間としての無力感を取り除くことはできない。


「タンポポになれたらいいな」


 夏朦はいつもこの叶うはずのないささやかな夢を抱き続け、たびたび心の中でそう思いながら、一人静かに涙を流していた。温奈がこのことを知ったのは、一度我慢できずに、嗚咽の一つも聞こえない夏朦を抱きしめたとき、その言葉が風に舞うタンポポの綿毛のように彼女の耳に浮かんできたから。


 温奈が今まで出会った人間の中で、最も儚く、最も強いのはおそらく夏朦なんだろう。消え入りそうなほど儚く、しかし人間として呼吸を続けているほどの強さを持っている。


 階段から足音が聞こえてきた。温奈が顔を上げると、まずは白いサンダルを履いた足が見えて、次に暗闇の中で光っているようなふくらはぎが見えた。その両脚が止まって、体育座りになると、ようやく全身が見えた。夏朦は無表情で暴風雨を見つめ、涙を流していた。それはまるで空とどちらが多く涙を流すかを競っているようだった。


 朝食が乗った皿を置いた温奈は、入れたてのコーヒーを階段の上り口まで持っていき、階段を登り、温かいマグカップを夏朦の冷たい手に渡すと、彼女の髪を愛でるように撫でた。


 しとしとと降る雨音は早朝に流しているリストFranz Lisztをかき消したが、幸いにも香りは衰えることはない。温奈はハンカチを手に取り、肌に赤みが残らないように気をつけながら、夏朦の頬についた涙をそっと拭き取った。


 結局、夏朦は温奈が心を込めて作った朝食を食べなかった。温奈は濡れタオルで夏朦の目を冷やし、泣いたことが見えなくなることを確認してから、急いで冷めたオムレツを三口、二口と食べた。温奈は夏朦の脆い一面が人に知られるのを恐れていたわけではなく、ただ夏朦を根も葉もない噂話から守りたかっただけなのだ。


 雨の日に一番困るのは、お客さんが持ち込む雨水や汚れだ。店の外に傘立てを設置し、入り口には雨の日用の靴ふきマットを敷いているが、それでもグレーや茶色の靴跡が残ってしまう。温奈はお客さんが少ない時に床をモップで拭いて、店内を綺麗に保つのだ。


 鳩おじさんは、店内の清潔さにこだわる温奈の気持ちを理解しているから、マットを数回余分にこすってから店に入るようにした。今日は鳩おじさんが十分ほど遅刻して、他のサラリーマンに一着を奪われた。


「今まで雨が降っても俺が一着位だった。あの警察官が長時間尋問しなければ、記録は保持できたのにさ」鳩おじさんは少し憤慨しながら言った。自分が記録保持者でなくなったことを気にしているようだ。

「警察官?何かあったんですか?」温奈が尋ねた。

「この前も話した事件のことだよ。最近、別の子が行方不明になった。俺の家の近くに住んでいる子なのよ。挨拶もしてくれてさ。とても礼儀正しい子だから、無事だといいんだけど……最近、社会がどんどん怖くなってきているから、君たちも本当に気をつけるんだよ。戸締りもしっかりね。奈奈は朦朦のことをちゃんと守ってやってくれよ」

「わかりました、教えてくれてありがとうございます」


 温奈は夏朦の様子をちらっと見た。ちょうどあのサラリーマンの会計をしていた。彼は毎日ここに来るわけではないが、よく朝食を食べに来る。鳩おじさんと違って、毎回違う食事を注文していた。


「うちは子供がいまして、最近までスクールバスで幼稚園に通わせていたんですが、今は妻が送り迎えをしていて、そのほうが心強いです。僕らが子供の頃にはそんなに悪い人がいないです。自分たちで歩いて通学していましたよ。今は本当に変わりましたね」サラリーマンが思わず口を開いた。

「あんたたちはまだマシかもしれん。忙しくて送り迎えができない親は仕事が大事なのか、子どもが大事なのかわからないよね」鳩おじさんはとぶつぶつ言って頭を振った。

「お金はまた時間を作れば増やせるし、子供は他に代わりがいないんだから、両親にとっては大切ななんですよ」

「よっ!兄ちゃん、良いこと言った!きっと良いパパだよね!」


 短い雑談で鳩おじさんは上機嫌になり、雨の中を颯爽と歩いて店を後にした。しかし、傘をさしたままずぶ濡れになっているその姿を見ていると、せっかくの良い気分も一瞬で吹き飛んでしまうと思う。ドアを開けられた後風に流されて入ってくる雨水を雑巾で拭きながら、温奈は心の中で感慨に耽った。

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