13 変化

 定休日の翌日、彼女たちの店は通常通りに営業している。今回温奈は朝からネットニュースをチェックするのを忘れなかった。また児童失踪事件が一件発生したというニュース記事は彼女を震えさせた。例え店内にお客さんがいなくても、後ろめたさのある彼女は無意識に周囲を見回した。すぐに心の中で自分を叱った、狼狽えてはいけないと、もし誰かに見られたら絶対疑われるから。


 深呼吸を繰り返したら、彼女はそのニュース記事の続きを読んだ。失踪した子供は僅か八歳で、両親共働きしてるので、放課後は自分でバスに乗って帰っていた。まさか彼はあの暴風雨の日に降りる駅を間違えて、バス内の監視カメラも後部出口から降りた子供を撮れなくて、運転士もあの子供がどこで降りていたのを覚えていない。その子はそれ以降消息を絶った。


 ニュース記事で書かれた特徴はあの子供と一致している。赤い服に青色の短パン、足に青いレインブーツを履いて、小さい青い傘を差していたという。彼女が子供の写真を見た。その赤みのかかった顔や髪型、カメラに向かってピースをした姿を見て、たとえ認めたくなくても、事はすでに発生してしまった。それはあの子供だ。彼女がその手で埋めた子供だ。


 温奈はニュース記事のページに動画のリンクが貼られていることに気付き、再生ボタンを押した。子供の母親は泣き崩していて、父親は悲愴な顔で「もっと子供の安全に気を配っていればよかった」と言った。


 ニュース記事の下に誘拐犯を罵るコメントが大量書き込まれた。非道だとか、人でなしとか、また仕事ばかりして、子供の安全に配慮しなかった両親も責めていた。そんな小さい子供を一人バスで帰らせるなんて、どんなに高い給料をもらっても子供を取り戻せない。


 温奈はニュース記事を閉じて、携帯がスリープモードに入って真っ暗になるまでに、モニターを見つめたままかなりの時間呆然としていた。。モニターに映っている自分の姿を見て、その目には憂いと後悔に満ちている。失う苦しみなんて、親のいない彼女が知らないわけがない。


 両親を失った彼女は間接的に他人の子供を奪って、その最後の姿も子供の両親に見せられなかった。なんて残酷なことだ。だが矛盾してる感情の中、彼女の心の一部はそんな残酷な自分のことを黙認した。彼女には彼女の理由があった。それは過激なのかもしれない。そして、正気ではないかもしれないが、それでもこれは彼女の選択だ。彼女が六年間隠した歪んだ愛情は、彼女を悪魔に作り変えるかもしれない。


 店の扉は開かれて、鳩おじさんは来店一番の座に返り咲いた。彼は元気そうに扉のそばで植物の剪定をしている夏朦に挨拶した。温奈は少し遅れて鍋を温め始めてから、冷蔵庫から大根餅と豆乳を取り出した。


「おはよう!奈奈!なんていい天気なんだ。一昨日は一日中大雨降らしていて鬱陶しかったよ。傘を差しても意味がなく、五分も歩かないうちに全身びしょ濡れになっちゃった。会社に入ったら、同僚も皆同じく濡れていたことに気付いたさ。はぁ、なんて変な天気だ。あの日は奈奈が作った朝食を食べれたのが幸いだったよ。なんでしたっけ、若い子たちが言っているあれ……そうだ!小さくて確実な幸せ!最近覚えたばっかりの言葉だけど、結構便利なんだ」その後一人で大笑いしていた。


 だが鳩のおじさんは少し笑ったら、急に真面目な顔で彼女たちにこう言った。「ただあの日にまた失踪事件が一件増えたんだ。例の子供を誘拐している犯人さ、わざわざ雨の日で犯行を及ぶとは、なんて恐ろしい。ただ雨が降ってるかとは関係なく、警察は何の手掛かりも見つけていない。警察の捜査能力を疑ってきたよ。警察が無能とかは言いたくないが、だだ……はぁ……君たちも気を付けたほうが良い。この社会はますます物騒になってきたよ。特に君たちは家に女の子二人しかいない」


 夏朦が豆乳を出した時、鳩おじさんはまだぼそぼそと呟いていた。温奈は心配そうに夏朦を見たが、意外にも夏朦の目からは何の隙も見せなかった。夏朦は鳩おじさんに微笑んで、その眉間に蕩けた笑みは温奈をドキドキさせた。いつもの清々しくてのどかな透明感は健在で、さらに自分では言い表せない魅惑的な感じが増えた。


「奈奈が私を守ってくれるのよ。そうでしょ、奈奈?」夏朦は振り向いて彼女を見た。そのまるで言葉を発せる両目の中には信頼しか映っていない。

 温奈は頷き、鳩のおじさんも頷いた。「そうそう、頑張れよ奈奈、俺たちの朦朦はあなたが頼りだ」


 温奈は「俺たちの朦朦」という言葉を心の中で突っ込まなくて、ただ彼女最愛の浅い色の瞳に夢中だった。まるで水に溺れそうになったみたいに、花の蜜のような甘い笑顔にメロメロになった。


 温奈は初めて鳩おじさんが注文した大根餅を危うく焦がしそうになった。だが鳩おじさんも今日の大根餅は普段よりカリカリだと気付かなかった。彼はただ食べる合間に夏朦と楽しく植物について話した。店を出る時も小さいオオタニワタリの盆栽を持って帰って、オフィスに置いて環境に緑を増やすと言った。鳩おじさんは忘れずにサボテンの貯金箱にお金を入れた。温奈は青い札(台湾ドルの千元札)が貯金箱に滑り入ったのを見たようだ。


 夏朦は普段お客さんの対応をするけど、その対応は受動的であって、笑顔だって営業用の微笑だけだ。だが今日の夏朦はかなり明るくなった。鳩おじさんの大袈裟な雑談にしっかり聞いただけではなく、返事をした回数も明らかに増えていた。夢の中で温奈の手を握って、小径で散歩していた夏朦に少し似ている。


「よかった。鳩おじさんがちゃんとオオタニワタリの面倒を見るって言った。奈奈、今日もオオタニワタリの絵を描いてくれる?」

「もちろん、何枚でも描いてあげるよ」


 夏朦が彼女の返事を聞いた後、また微笑んだ。嬉しそうに「一枚でいいよ」と答えた。夏朦が変えた原因を温奈にはよく理解できなかった。夏朦の心はまるで入り組んだ迷路のようだ。中はとても複雑で、その心に入ろうとした者はいつもその曲がりくねる道に惑わされ、壁にぶつかる。でも彼女はこんな夏朦のことが大好きで大好きで、まるで白昼夢を見ているような気分だ。


 温奈はこっそり自分の腕をつねった。痛いから、これは夢ではない。夏朦の左手首を見ると、付けていた絆創膏はすでに消えた。元々傷は深くないから、よく見ないとわからない。だがその目で血が滲んだその傷を見た彼女にはまだその僅かに残っていた傷跡が見える。逆に自分の手のひらの傷はすでに瘡蓋ができたが、まだ毎日薬を付ける必要がある。


 もしその時自分が一歩遅れたら、どうなるのだろう?もし夏朦が扉を開けてくれなかったら、もし夏朦の血が湯船の水を真っ赤に染めていたら、もし自分が扉をこじ開けて入った時、夏朦がすでに地面に倒れていて長い時間が経ったら、もし……


 温奈は自分の手のひらを見つめた。醜くて深い赤色の瘡蓋が手のひらを横切っていて、掌紋を分断し、すべての秩序を壊した侵入者となった。彼女はこの傷跡のことを嫌っていない。それが一生自分の手のひらに残ってほしいとさえ思った。だってこれは自分が夏朦の代わりに傷付き、その数多なもしもを止めた証である。栄誉な勲章、とでも言うべきかしら。


 夏朦はグラスと皿を彼女にいるキッチンに運んだ時、温奈はレモングラスの香りを感じた。それは自分が先月夏朦に送った誕生日プレゼントだ。温奈が香水カウンターに行く時はいつも長い時間をかけて香水を選んでいた。そして店員さんにそれぞれの香水に使った花の花言葉を聞いていた。多分彼女のように植物に隠された秘密の言葉をそれほど気にする客はないだろう。だから毎回店員さんも花言葉を知らない花の香水を見つけると、店員さんと一緒に携帯を取り出してネットで調べる。


 香水を買う過程は面白くて、通うたびに香水カウンターの店員さんと知り合いになった。毎回彼女が厳選した香水を持って帰る時、店員さんは彼女の恋を応援してくれる。彼女の好きな相手が同性であることや彼女たちが友達以上の関係になることは一生ないのも、告白する気すらないということさえも、店員さんは知らない。彼女は臆病でずっと言い出せなかっただけだと、向こうはずっと思っている。


 臆病、本当にただ臆病なだけでよかったのに。自分は告白する勇気がないわけではなく、できないのだ。


 でも彼女は毎回店員さんに微笑むだけで、礼は言っていない。それは自分に応援が必要ないからだ。ただ自分の思いをこっそり香水の中に隠せば、それだけで十分だ。


 レモングラスの花言葉は、言葉にできない愛。


 彼女はまるでレモングラスのように、人の目を引き付けるような花がなく、誘い込む香もない。ただ一束の緑でいて、片思いを抱え続けて成長するだけ。


 夏朦はその香水に隠された言葉を知っているのか?


 温奈は密かに夏朦が気付くことを願っている。それと同時に気付いてほしくないのだ。その言葉は口にしていないとはいえ、確かにそれを夏朦に渡した。自分のラブレターが細長くて白い首筋に付けられて、その香りで何度も何度も夏朦の存在を確認した。


 夏朦の笑顔はその香りさらに濃厚にした。温奈は少し酔っているように感じた。幸せ過ぎた眩暈が彼女の頭を占めていた。今の夏朦はまるで人間だ。人間の匂いを付けているように、鮮やかで眩しい。


 今この瞬間こそ、月が地球に一番近付いて、手が届きそうになった日だ。冷たい月明かりに浴びた彼女の視線と思いは、月にしがみ付くしかできない。罪悪感すらもしばらく忘れられそうだ。

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