33 デート

 鏡に向かっている温奈の注意は彼女の髪を染めている美容師にあらず、鏡の反射で映った休憩エリアで雑誌を読んでいる夏朦に向けた。美容師はそのわかりやすい視線に気づいて、カラー剤を塗りながら温奈に話しかけた。


「相変わらず仲がいいね。彼女は毎回あなたに付き合ってくる。店に座って待ってくれる人は滅多に見ないのよ。近くに色んな店があるし、お連れ様は大抵近くの店で暇潰しをするのよ」


 突然振ってきた話題のせいで、温奈の視線は美容師のほうに移った。温奈は笑って黙認した。彼女たちはとても仲が良いことを、誰が見ても一目でわかる。常連客でも、温奈を担当する美容師でも。ここに引っ越して以降、温奈は異なる美容室で温奈がいつも使うサンダルウッドのカラー剤を探していた。幸運なことに尋ねた二軒目の美容室でそれを見つけた。しかも腕の良くて、朗らかで喋り上手の美容師に出会えた。


「まだ彼女に言ってないの?あなたの気持ち」おしゃれな恰好でパーマの美容師が聞いた。


 温奈がこの店の常連客になった一つの理由がこの美容師にある。鋭い勘で温奈が夏朦に対して友達以上の感情を持っていることを見抜いても、差別な目で彼女を見ない。


「いや、言わないよ。現状を維持できたら、それで良いんだ」温奈は微笑んで答えた。

「惜しくはないの?もし私だったら多分我慢できないよ。好きな人は手の届くところにいて、しかも一緒に住んでいるのに」

「我慢できなくても我慢するのよ、彼女を失うほうが辛いから」

「彼女は幸せのはずよ、こんなに愛してくれる人が傍にいて」

「幸せ……かな?」


 再びその姿を見て、ちょうど顔を上げた夏朦は鏡の中の温奈と視線が合った。温奈は夏朦に微笑んで、夏朦も同じように微笑み返した。最近夏朦の身に再び笑顔が戻っている。夏朦が浅い笑顔を見せる度に、温奈を温かく感じる。心の傷口が裂けた時でも、夏朦の笑顔のおかげで癒される。子猫や子犬などの可愛い小動物から癒しを求めている人も多いが、温奈にとって癒しは、すべて夏朦から来ている。


「そうだと良いな」言葉にすると、温奈自身もその寂しい声に驚いた。いくら温奈がすべての愛を捧げても、夏朦を幸せにできる自信はない。


 温奈の口調から悲しみを感じたか、美容師は自然に話題を変えた。面白くて軽い話題で空気を和らげようとしたらしい。そんな美容師の気遣いに温奈は感謝した。それに、近くに新しいレストランができたという思わぬ収穫もあった。その評判も結構良いらしい。美容師も何度か食べてきて、かなり満足しているようだ。


 温奈がやっと椅子から離れた時、温奈の髪の色はすでにいつものサンダルウッドに戻っている。美容師は温奈の『デート』のために、わざわざヘアジェルも使って、ヘアゴムの代りに髪だけで高めのポニーテールを結んだ。温奈は美容師に礼を言った。美容師は温奈にウィンクをして、「楽しんでね」と言った。


 二人の秘密の会話は夏朦の耳に届かなかった。夏朦は温奈が近付くのを見てから雑誌を閉じて、彼女の伸ばした手を取り、彼女に身を任せて引っ張られて立ち上がった。温奈はこの動きは彼女のような敬虔な信者に向いていると思って、そして彼女の女神もいつも合わせてくれる。


「似合う?」

「すごく似合ってるよ」


 温奈は美容師が彼女たちの後ろで軽く笑っているのが聞こえた。得意げに笑っている美容師を温奈は気にしない。温奈は褒め言葉を得た。それもただの『似合う』ではなく、『すごく似合う』である。夏朦がどんなタイプの人が好きなのか温奈はずっと知らない。日常生活の細かいところからそれとなく探り、ゆっくり模索しかない。最後は発見した点を自分に反映して、そして得意げに夏朦からの誉め言葉を集める。


 美容室を出て、色んな看板とネオンライトが夜の町を照らしている。賑やかな人混みは温奈に夏朦の手を繋いで歩く理由を与えた。温奈は美容師が勧めたレストランのほうへ歩いて行った。それは食べ放題のイタリアンレストランだ。温奈は値段分を食べれないことに気をしなかった。色んな選択があって、夏朦が食べたい料理を見つけられるほうが大事だから。


 夏朦は温奈に何かを言ったようだけど、周りの音がその細い声をかき消した。温奈は俯いて耳を傾けた。夏朦は上手く声を温奈の耳に届かせようと、温奈の耳元に近付いた。


「今、どこに向かってるの?」

 あのレストランが夏朦にサプライズを与えられて、もっと夏朦に食べさせるのかを期待しすぎたせいで、行先を相手に教えるの忘れた。

「ご飯に連れてくよ」


 温奈が勿体ぶって短い言葉だけで答えるの見て、夏朦もこれ以上何を食べに行くのかを聞かなかった。目的地すら聞いてなくて、安心して温奈について人混みの中を歩いている。


 もし彼女ランキングがあれば、夏朦はきっと一位だ。好き嫌いはしないから、何でも食べてくれる。それでいて夏朦にどこに何を食べに行きたいのか聞く時、夏朦は何でもいいなんて言わない。代わりに真剣に温奈はがどこに行きたいのかを考える。


 いつも自分のことを最後に考えて、真っ先に相手のほうを考える。夏朦こそが無欲の見本だと温奈は思っている。だが温奈は夏朦がもっとわがままに、もっと自分のために考えてほしい。


 温奈はデートという妄想に溺れることがなく、街角に立っている警察に気付いている。あのディープブルーの制服はかなり目立つ。その腰にかけた警棒と銃に、温奈は無意識に避けようとした。夏朦を連れて警察のいないところに隠れたい。やはり後ろめたいことをすれば警察を怯えるようになる。例え警察のほうは何の手掛かりも見つけていなくてもだ。


 しかし、それは外部に対する説明だ。もし彼らはすでにこっそり彼女たちを容疑者リストに入れて、残っているのは一番重要な証拠だけならば、それを見つけ次第、すぐに扉を破いて彼女たちを捕まえに来るだろう……


 心が動揺し、夏朦の手を握っている手の力は急に強くなって、遠くないところの看板を目掛けて、温奈は足を速めて目的地のほうへ歩いた。


 危険すぎる、危険すぎるんだ。一刻も早く街道から離れないと。土に埋めた子供がまた温奈の足を掴もうとしたようだ。必死に隣に引っ張って、彼女たちを警察のほうに引っ張り出そうとする。


 水に沈められた若者は水の中で爛れた四肢を伸ばして、八本足のタコのように温奈をしがみついて、温奈の耳元で囁いた。「早く、この人殺し共め、さっさと捕まって、死刑にされるといい!一人は生きたまま土に埋めて、一人は海に沈めてやれ、浮かばないように石を巻き付くのも忘れずに。さあ、どっちを選びたい?」


 恐ろしい妄想のせいで足を速めて、温奈は緊張そうにパトロールの警察のほうを一瞥した。気のせいかだろうか、なんとなく警察が温奈に疑いの目を向けているようだ。


 幸い一秒後にレストランの入り口に着いた。温奈は浮き木を掴んだようにドアノブを回し、先に状況外の夏朦を店内に押し入れた。自分の大きい体で夏朦を遮って、そして門を閉じて騒がしさと恐怖を外に閉じ込めて、警察のいない店に入り込むことができた。


 温奈は手を伸ばしてウェイターに二人のジェスチャーをした。ウェイターはすぐに彼女たちを案内し、一つ一つの精巧なテーブルクロスを敷いたラウンドテーブルを抜けて、店の奥にある隅っこの席に着いた。ウェイターは申し訳そうに現在店内はほとんど満席で、隅っこの席しか残っていないと説明した。


 温奈は笑顔で『大丈夫です』と言って、幸い店内の客が多いと考えた。今の温奈にとってはまるで森に隠れてるようで、安心した。もし窓側の席に連れていかれたら、どう断るかを考えなくてはならないところだ。


「奈、大丈夫?」


 席に座ると、夏朦は心配そうに温奈に聞いた。温奈は心の中で慌てた自分を責めた。夏朦の共犯者として、温奈を守る責務を担わないといけない。誰にも怪しい挙動を見せてはいけない、夏朦にもだ。


「大丈夫、ただ少しお腹が空いただけ。美容師からここの料理は美味しくて、種類も多いって聞いた。行こう。何の料理があるのか見てみよう」


 夏朦の純粋な瞳に疑念はなかった。夏朦が頷くと、二人は一緒にきらびやかなビュッフェテーブルのほうに向かった。内装の鏡の前を通った時、温奈は我慢できずに鏡の中の彼女たちを覗いた。美容師は温奈をかっこいい感じにしたので夏朦とは対比になっている。温奈はまるで姫を守る騎士のように、暗闇に潜む影として、長年城に住んでいる姫を支えている。


 もし温奈が夜であれば、夏朦は夜に咲く血桜であろう。その純潔な美しさに目を奪われないものはない。彼女たちに気付いた者たちは皆つい二度見をしてしまう。だが温奈は姫に対して良からぬ考えを持つモブたちを睨むから、誰一人もその場に留まる勇気がなくて、温奈の凍てつく視線を避けながら下を向いて素早く彼女たちの席の横を通った。

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