39 努力

 たった数日間でダメージを二回も受けたことは、夏朦にとって大きな負担となっているに違いない。温奈は夏朦をもっと休ませたかったから、翌日の朝は起こしに行かなかった。でも結局その儚い人影は開店前に一階に降りてきた。コーヒーだけを飲んでから、店の扉に掛けている営業中のプレートを裏返した。


「朦、大丈夫?無理しないでね」


 それは温奈の気のせいではない。夏朦の肌の色はどんどん薄くなってゆく。恐らくはストレスの影響だ。夏朦はまるで幽霊のように、その肌は恐ろしいほどに青白い。


「無理はしてないよ。奈奈、昨日は……ありがとう。私の犯した過ちなのに、一人だけ隠れて奈奈を向き合わせてた」

「私は大丈夫だ。謝らなくてもいいよ」


 申し訳なさそうな夏朦の顔を見ると、温奈は慌てて相手の誤解を解こうとして、大股で夏朦の前まで歩いた。両手をその華奢な肩に乗せ、一番真剣な表情で相手の瞳を見つめて、自分の本当の気持ちを自分の女神に伝えたい。こんな時、温奈は植物たちが妬ましい。夏朦は植物たちの声が聞こえるのに、温奈の心の声が聞こえない。温奈がどれだけ身を捧げていたのかを知らない。


 ただ、もしそれが聞こえるなら、彼女の女神は昔のように彼女に甘えるのか?安心して彼女を頼れるのか?

 それとも、あの海藻のように揺らいでいる感情にどう向き合うかわからずに、無音から音がする喧噪の中に巻き込まれることを恐れるのか?


「もし過ちだとしても、それは私たちが一緒に犯した過ちだ、だから謝らなくていい。疲れたのなら当然休む必要がある。前にも言ったけど、あなたは自分に素直になればいい。私も自分に素直にしているだけ。私は強い。あなたよりもずっと強いから、心配しなくていいよ。私に任せればいい」


 千篇一律の言葉でも、夏朦に信じてもらうために、温奈はそれを一千回も、一万回も言うつもりだ。


「うん、奈奈は本当に頼りになる。だから私も負けてられない」

「それならもっとたくさん食べて、頼りにならないとね」


 温奈は振り向いて流し台に置いたダンピンを取って夏朦に渡した。中身にはトウモロコシとチーズが入っていて、黄金色の組み合わせは今日の天気とよく合うって、明るくて元気に満ちている。温奈はその明るさを夏朦にも分けてほしい。


 夏朦は少し眉をひそめて、皿を受け取る気はない。温奈はそんな夏朦を見ると、自分からフォークでその一枚を半分に切って、それを刺して血の気の引いた唇のそばまで運んだ。夏朦は一口サイズのダンピンを見ると、大人しくそれを口にして、温奈の期待に満ちた視線の中で咀嚼している。温奈は夏朦が飲み込む時の喉の様子をじっと見ていて、食べ物がちゃんと夏朦の体に入っているの確認した。


 温奈はどんどん夏朦の母親っぽくなっている。『理想』の母親は、いつも食べてくれない夏朦を心配している。


「おいしい?もう一口食べて?」


 夏朦が頷くのを見て、温奈は残りの半分もあげて、そしてダンピンが消えるのを満足そうに見ている。二口が夏朦の限界のようだけど、ちゃんと食べているならそれでいい。やはりトウモロコシとチーズの組み合わせは正解のようだ。濃厚なチーズを爽やかなトウモロコシで中和させ、料理全体の噛み応えも良くなる。温奈はこれをちゃんと覚えておかないといけない、もしかしたら次も同じ手を使えるかもしれないから。あるいは似たような組み合わせに変えてみるとか。


 バターにエリンギとか?ポテトグラタンにサクサクにした細切れのベーコンをかけるとか?店のメニューを考えている時もこんなに集中したことがない。温奈は思わずこっそり笑っていた。やはり恋は人の理性をなくさせる。


 夏朦は前回よりも積極的に良くなろうとしているのが温奈にはわかる。健康を取り戻そうとする以外にも、強くなって、頼りになろうとしている。それは自分のためであると温奈は推測した。温奈は夏朦の動機になれた。夏朦は守られる側よりも、温奈と同じ位置に立ちたい。温奈と一緒に二人で共有した罪を分担したいから。


 ただの共犯である。ただ自分たちの友情のために。温奈は心の中でこれらの言葉を数回繰り返して、嬉しさで飛び上がろうとする妄想を抑えようとした。その妄想の声はあまりにも鮮明で、ずっと「夏朦は私が好きだ!夏朦は私のために頑張ってる!きっと少しだけ私を好きになったんだ!」という錯覚を歌っている。


 好きな相手も自分のことが好きだと勘違いするのは、人間がよく感じる錯覚の一つである。恋愛中の人であれば老若男女問わずにそうなる。皆は一つの目つきでうきうきになって、それが考え過ぎだということに気付かずに、自分に大きなチャンスを迎えたと勘違いをする。


 この道理は、六年も片思いをした彼女は当然重々承知している。それでも温奈はすごく嬉しかった。今回は大きな突破であって、夏朦の大突破である。愛する人が彼女のために頑張る姿はどう見ても魅力的だ。夏朦の声だけを耳の中に保存するためなら、自動的にお客さんたちがペラペラと事件について話す声すら無視できる。


 最初は夏朦がお客さんたちの会話を聞けばまた辛くなるんじゃないかと心配していたが、料理運び、飲み物作り、そして勘定の時以外、夏朦は植物の面倒をしていた。自分の愛するものに集中すれば、周りの雑音を有効的に無視できるようだ。何回か夏朦が本当に耐えられなくなりそうで、キッチンに入って客が見えない隅っこにしゃがんで、耳を塞いで体を縮こませていた。そんな時は温奈も一緒にしゃがみ、その小さい体を軽く抱いて、彼女の女神が再び冷静になるまでにゆっくりとその背中をさする。


 この日、夏朦はあんまり涙を流さなかった。そして、徐々に軽い微笑みを見せるようになった。例え一瞬だけでも、その瞬間の一つ一つは温奈に希望をもたらした。そして温奈は余すところなく眩しい笑顔で返して、自分の笑顔に何らかの力があると期待し、相手を笑わせて、彼女の女神に安心感を与える。どんな時でも温奈はそばにいるとわからせる。


 二人の調子は絶好調で、息ぴったりに夕方まで働いた。今日は満足になりそうな一日だと思っていたが、遠くから歩いてきた三つの人影が無慈悲にその幻想を砕いた。夕日は彼らの影を長く伸ばして、地面に映したそれは何かの怪物のように捻じ曲がっていた。


 夏おじさんが先に扉を開いて、『夏おばさん』と『妹』を連れて客がいない店に、彼女たちの仙境に踏み入れた。


「まだ営業してるか?」

「父さん……どうして来たの?」夏朦は喜ぶ顔や驚く顔をするべきかわからなかった。席に連れてくのを忘れて、ただ困惑しそうに聞いた。

「あなたを見に来たのさ、駄目か?」夏おじさんは彼女たちの案内を待たずに、勝手に席に座った。


 短い一言で、温奈の額に青筋を立たせた。怒りを胸に仕舞い口に出すことができなかった。


 よく言うね。まるで娘のことを気にかけているようだ。でもあれが本当に気にかけていると言えるのか?

 温奈は疑っている。温奈には夏おじさんがただ早く答えを知りたくて安心したいだけのように見える。


 温奈は知っているのだ。傍観者である彼女がわからないはずがない。彼女の女神だけがその陰湿な陰謀に気付かない。


 夏朦はメニューを彼らに渡した。夏おじさんは他の二人が受け取らないの見て、一回に三人分のメニューを受け取り、入ってからずっとイライラした顔をしていた二人の前に置いた。


『夏おばさん』と『妹』はスタイルも顔も、服装のセンスも同じ型からできているように見える。『夏おばさん』は大体三十歳前後で、夏おじさんよりかなり若い。『妹』は多分まだ中学生だ。その顔に『夏おばさん』と似た傲慢さが見えて、温奈は思わず人の雰囲気と性格も遺伝するのではないかと疑った。


「何か食べたいものがあれば好きなだけ注文して、奈奈が作った料理は本当に美味しいよ」夏朦は自分から挨拶して、柔らかい声に普段なかった迎合を帯びていた。


 しかし、その二人は夏朦の好意を受け入れなかった。『夏おばさん』は「いらない。私たちは腹が減っていない」と冷たく言った。

 夏朦の肩が少し縮込んだが、それで諦めなかった。夏朦は『妹』のほうを向いた。その『妹』がこれっぽちも夏朦の顔を見るつもりがなくても、夏朦は優しく聞いた。

「それとも何か飲む?妹はミルクティーが好きだったよね。用意するから、甘いほうが良いんだね?」

「いらない」


『妹』もきっぱり断った。断った時にお礼の『ありがとう』すら言いたくなかった。

 夏朦に免じて、温奈は口出しをせず、手を出さずにいたが、人の我慢には限度がある。温奈はもう爆発寸前だ。


 最後の爆弾は『夏おばさん』が投げ込んだのだ。彼女は鮮やかすぎる赤色の口紅で塗った唇で夏おじさんを急かした。「少し話をするだけじゃないか?あとで演奏会に行くんだから、早くしないと間に合わなくなるよ。ここは市中心部から遠いし」


 夏朦はその場に固まった。温奈はその両目に映った失意を見逃さなかった。夏朦の両肩は無力になり、それが晴れから曇りに変えたような感じだった。夏朦はまるで捨てられた子猫のように、家族のそばに立っているというのに、一人だけ寂しく温かい『家』に融け込めずにいた。

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