38 噂

 夏朦の動揺を見て、温奈は逆に冷静になれた。温奈はいつも通りに鳩おじさんが注文した黄金色のサクサクの大根もちを焼いて、さらに濃厚の豆乳をコップに注いだ。笑顔で夏朦を気にかけている鳩おじさんに『大丈夫です。夏朦はただ休憩が必要なだけです』と言った。


 朝から昼まで夏朦は一階に降りたことはなかった。店は忙しいが、温奈は理路整然として一人で料理を作っていた。温奈は適応しているんだ。未来の夏朦がいない店も、このような感じになると思っている。忙しいことが温奈にとって何ともない。少し我慢すればやり過ごせる。一番厄介なのはやはり心の虚しさだ。振り向く度に夏朦の姿が見えない虚しさのせいで、馴染んだ空間もよそよそしく見える。


 店内の常連客たちは皆あのニュースのことについて話している。誘拐犯は郊外の豪華別荘に住んでいて、乳幼児心理学界屈指のカウンセラーで、値段が高くても、多くの親が子供を彼女の所に相談しに行かせたと喋った。親しみやすいカウンセラーにそんな恐ろしい一面があるとは誰にも思わなかった。


 ニュースサイトはその豪邸の写真も公開した。温奈はそれがどこかで見たような気がして、確かに見たことあるとすぐに思い出した。あれが死体を捨てに行った途中で見かけた豪邸だ。あの時はなんであんなところに住む人がいるのか不可解だったが、まさかあれが犯人の家だなんて、しかも犯行現場でもある。どう考えても不気味だ。彼女たちが捨てた死体を加えると、その地に十六体も死体があった。そこに犯罪を引き寄せる何かがあるのではないかと疑う。


 温奈は警察が捜索の途中であの崖に気付かないでほしい。海に沈めたあの死体が腐って、土に埋めたあの子供のように大自然の養分になるには、まだ少し時間がいるから。


 常連客たちの会話の内容から、温奈は様々な違う噂を聞いた。ある噂ではあのカウンセラーが離婚のせいで情緒不安定になって、子供も欲しかったから犯行に及んだ。また別の噂では、あのカウンセラーが最初の子供を殺した後に、殺人の快感にハマってしまったから、子供が反抗する時に容赦なく殺して、また次のターゲットを探しに行った。


 温奈はただ黙って聞いていただけで、会話に参加しなかった。誰も犯人の本当の犯行動機なんて知るわけがない。当時の状況、その心境を知らないまま、ただ一部の情報に基づいて推測するしかできない。ゴシップ好きの性格の人もあって、多くの噂はひたすら大げさに語られる。たとえそれが事実でなくても、噂が広がって定着したら、それもまた『事実』となる。


 温奈は犯人が人を殺す理由をそれほど気になっていない。かつて心の中で燃やした怒りの炎はとっくに消えていた。今温奈が一番気になるのは、『あの子供』が死体の山の中にいないというニュースがあるかどうかだ。


 温奈は誰も注文していない間にネットの最新ニュースを読んでいた。今のネットは便利で、ニュースの更新が速い。それぞれのメディアは我先にこの事件を報道していて、そのタイトルは次々と恐ろしくなっていく。何度も再読み込みして、一つの新しい報道が出た。タイトルに書いた数字は十六でなくなって、十五になった。やはり、あの豪邸からは十五体の死体しか出なかった。皆は十六人目の子供はどこに行ったのかと聞いている。その子供の家族は犯人に子供を返してと泣き叫んでいた。たとえ死体だけを返しても、せめてちゃんと埋葬することができる。


 誰も死体の行方がわからない。犯人もその子供を誘拐したことを否定している。温奈はため息をした。とっくに心の準備ができているが、いざ露見したらやはりストレスを感じる。もし犯人が最初から黙秘を続ければ、まだうまく誤魔化せたかもしれない。残念ながら今となっては誘拐犯に擦り付けることができなくなった。


 店内のお客たちはまた最新ニュースのせいで盛り上がっていた。子供のあるお客は安心できないと言って、この世界にはキチガイが多すぎると騒ぎ出した。イカれているのに医者に診せて、精神病院に閉じ込ませないで、外で世間に危害を加えているとは言語道断だ。あの人たちは知らない、彼らが言っているキチガイがこの店にいる。そして、彼らはその『キチガイ』が作った料理を楽しんでいる。


 実は温奈は少し申し訳なく感じた。常連客はずっと彼女たちに親切にしている。なのにこんな恐ろしい事実を隠して、犯人の手作り料理を食べさせた。でもこれも仕方のないことだ。温奈の一番大事なことは、いつだって夏朦だけだ。


 温奈はそれ以降その話題を気にとどめなかった。今では温奈が世界で唯一あの子供の行方を知る者だ。温奈が言わなければ、誰も知るわけがない。ニュースサイトを見て、引き続き他の失踪事件がないかと気にしている。あの崖から戻ってすでに数週間過ぎたが、小さい人探しの新聞広告すら見かけたことがない。それが温奈にとっては良いことだけど、どうして人が突然消えたのに、誰も気づかないのか、思わず気になっている。


 あの子供とあの若者は同じ人間なのに、失踪後の騒動は天と地の違いがある。あの子供の失踪はまるで重たい石が水面に落ちて、激しい水しぶきを飛ばしたようだ。でも若者のほうはさざ波すらなく、ただ静かに水に沈んでいるみたいだ。


 この間の差はなんだ。片方に彼を愛していた家族がいて、片方にそれがいないからか?

 もし温奈と夏朦だったら、同じように誰も探しに来ないのか?

 そんな彼女たちは可哀そうと言うべきか?哀れなのか?あの黒い子猫と他の殺された小さい命と同じ、世界にとっては有象無象でしかなく、静かに死んでも、なんの音もしない。


 温奈は首を振って、そんな不吉な考えを捨て去った。客が呼んでいるのを見て、慌てて携帯を仕舞ってキッチンから出た。温奈はまだ仕事中だ。夏朦の分も頑張らないといけない。余計なことを考える暇はない。


 午後の時間になって、店には前に月桂樹を持ち帰った若い女性しかいなかった。今になって彼女はもう常連客とも呼べる。よく来るだけでなく、あれからも少しずつ小さい植物を持ち帰っている。夏朦は時々この客と植物の近況を話していて、信頼できる常連客だ。温奈は若い女性に一声かけて暫く上の階に行って、すぐ戻るからと伝えた。その後は茶漬けとサラダと果物、コーヒーを乗せたトレイを持って二階に上がった。


 夏朦の部屋の前まで来て、片手でトレイのバランスを取り、もう片手でノックした。


 コン、コンコンコン?

 朦、起きてる?


 中からは声がしなかった。温奈は再び同じリズムで四回ノックしてから、扉を開けて中に入った。


 半分閉めたカーテンは窓半分の日差しを遮っているから、ベッドで横になっている者の細い体は暗闇に包まれている。温奈は音を立てずに机の前まで歩いてトレイを置いてから、心配そうな顔でベッドのほうを見た。


 夏朦は温奈に背向いて横になっている。布団の上で寝ている姿は黒雲を枕にして眠っているように見えた。長い髪は後ろに流れて、腰回りの曲線がはっきり見える。露出した腕は彼女が見ても寒いと感じるから、タンスの中から毛布を出して夏朦に被せた。その動きはゆっくりで優しく、熟睡している者を起こすの恐れている。


 温奈は夏朦の顔を一目見て、忍び足で扉まで歩いた後、少し止まった。


「腹が減ったら多少食べてね。店の心配はいらないから、ゆっくり休んで」独り言を言っているようだが、夏朦が聞こえているのがわかっている。さっき一目見た時はちょうど彼女がまぶたを閉じた瞬間を見たからだ。


 それ以上止まることなく、温奈は部屋から出て扉をゆっくり閉じた。まぶたを閉じた瞬間だけでなく、夏朦の腕の下にあったアルバムも温奈は見逃さなかった。


 開いたページにはサングラスをかけて、麦わら帽子を被って、海を背景にして笑っていた自分の写真がある。写真の中の自分はまるで夏朦を心配している自分に向かって笑っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る