03 図鑑
多くの人が朝食を食べに店にやってくるので、七時から八時までの時間帯が一番忙しい。それはサラリーマンたちだけではなく、時には夏朦の姿を見るために早く家を出た男子学生もいた。
例えば、今チーズダンピンを食べながら、こっそり夏朦を見ている角刈りの少年がまさにそうだ。
少年の視線が夏朦の肩や首の後ろの肌に注がれていることに気づいた温奈は、階段の壁のフックにかけられた薄いジャケットをさりげなく手に取った。夏朦がキッチンに入って飲み物を用意しているとき、このチャンスを利用して、ジャケットであの白さを血気盛んな少年の両目からを守ろうとした。
「暑い」
「薄着だよ。風邪ひくよ」
温奈の言葉を聞いて、夏朦は口答えすることなく黙って薄いジャケットを着てから、がっかりした表情を見せる角刈りの少年にアイスティーを運んだ。
夏朦の体温が低く、暑がり屋で、よく寒さを感じられない。うっかり風邪をひいたときはいつも温奈が看病するから、暑いと思っても大人しく彼女の言うことを聞いて服を重ね着するのだ。しかし、夏朦は思いも寄らないだろう。それは単なる世話ではなく、時にはちょっとした私心が混じっていたことを。
正午を過ぎた頃、客はいつも二、三人しかない。あまり忙しくないから、二人は少し休むことができる。
温奈は音響設備からCDを取り出し、別のアルバムのCDをセットした。激昂したリストの曲より、シューベルトの爽やかな曲のほうが午後に似合う。それはオレンジジュースを飲みながら本を読む若い女性にも気軽に楽しんでもらえる時間だ。
特にすることがない温奈は夏朦に歩み寄り、小さな月桂樹の前にしゃがんで一緒に目をやった。先の若い女性がこの月桂樹を注文したばかりで、夏朦が最後の剪定をしてくれるのを待っている。
捨てられた植物は全て夏朦の丁寧な手入れですくすく育ってきた。野良猫や野良犬が新しい家を見つけ、それにふさわしい世話を受けると、また毛つやがよく見えるようになるのと同じである。お客さんが気に入ってくれて、大切に扱ってくれるのであれば、タダで持ち帰ることができるのだ。
「命に値段はつけられないし、この子たちで商売をしたくないの。ただ拾って世話をして、ふさわしい人が家に連れて帰るのを待っているだけよ」と夏朦は言った。
夏朦がどうしてもお金を受け取ろうとしなかったが、最後は常連客の勧めで、サボテンの形をした貯金箱が置かれるようになり、自由に寄付して夏朦の救援活動を支援することができるのだ。
「月桂樹はきっと喜ぶと思うよ」
温奈は月桂樹の葉を丹念に観察し、細部まで見逃さず、夏朦の努力を記憶に刻み込んでいった。彼女はたくさんの植物を集め、夏朦から聞いた名前をラベルにして、思い出という図鑑に記録した。
「うん、新しい家が見つかって嬉しそうだよ」
「あなたのおかげで新しい家が見つかったんだ」
「また、辛いことが起きないよう、新しい家でずっと暮らせたらいいね」
この月桂樹が最初に店に来たとき、辛うじて黄色い葉が数枚枝に付いているだけだったのが信じられないほど、今はびっしりと葉を付けている。
温奈は夏朦に視線を向けると、「家」というキーワードが、彼女の寂しげな表情を引き出していた。 昔、家も家族も失った温奈にとって、今この建物は自分の家であり、夏朦は自分が心の中で認めた家族である。
しかし、夏朦の家は彼女のように単純ではない。温奈は夏朦にそんな家のことを考えるのはやめて、自分を唯一の家族として接しなさいと言いたくなるのだ。
温奈も彼女はそれができないとわかってるから、ただ思うしかない。
夏朦は細い指で愛おしそうに葉を撫でながら、月桂樹の葉に囁きかけ、ゆっくりと植木鉢を回転させて葉の一枚一枚に祝福を与えていく。温奈はこの儀式的な行為を見るのが大好きで、夏朦の祝福を受ければ幸せになれると心の底から信じる。
若い女性が月桂樹の鉢植えを抱いて立ち去ろうとするとき、夏朦は世話の方法を記載した手書きのメモを手渡した。女性は微笑みながら、この木を大切にし、何かあればまた来ることを約束した。
夏朦は店の外に立って月桂樹を持ち帰る女性を見送って、完全に見えなくなるまでずっと女性の背中を見てから店内に戻った。太陽の光で頬が少し赤くなり、目も少し赤いように見えた。
温奈は幸い、これから春になることを思った。もし今が九月なら、夏朦はずっとこのこんな気持ちのまま秋を過ごすことになるだろう。
「奈奈、月桂樹を描いてくれる?」
鼻にかかった甘い声が響いた。どんな答えが返ってくるかわかっていても、夏朦はその都度、温奈の答えを求める。
「うん、何枚でも描いてやるよ」
「一枚でいい」
「了解、一枚ね」
客のいない店内で、夏朦は温奈の肩にそっと寄りかかり、優しい曲が二人の間の沈黙を満たした。温奈は月桂樹の外見、緑の葉の映り込み、そして月桂樹を見つめる夏朦の優しい眼差しを頭の中で再生していた。
温奈の頭の中にある夏朦についての図鑑には、彼女の色んな表情、振り向く時のなびく髪、そしてはっきりしない清らかな香りが描かれていた。
彼女はこの図鑑が自分の永遠になって欲しい。心のドキドキと敬慕の気持ちと一緒に、春夏秋冬を共にすることを願った。
「今日は満月らしいわ」夏朦が突然言ってきた。
「うん、今夜は満月だね。月が最も地球に近づく日なんだって」
「月は地球にもっと近づきたいから、頑張ってお互いの距離を縮めているのかしら?」
「わからない。もしかしたら、月が気まぐれに地球に少し近づいて、そしてすぐにまた離れてしまった。地球が勝手に月の気持ちを誤解してしまっただけ」
「月はそんなに意地悪いかしら?」
「そうじゃないと思うよ。ただ、自分の動きが地球にどれだけ影響力があるか知らないんじゃないかな」
そう話し終えると、温奈は自分が、例えば世界にはサンタクロースは存在しないなど、夢がなくなるような実話を話して、子供の美しい幻想を破壊しているように思えた。
夏朦は静かに離れていって、肩が急に軽くなった。実はそんなに重くなかったが、温奈は何かを失った感じをした。
夏朦にばれた?
自分のことだって気づかれてしまった?
月は夏朦と同じで、ちょっとした愛情表現で期待を持たせても、すぐにいつもの距離感に戻ってしまう。
もしかしたら、月は本当に少し意地悪いかもしれない。地球の気持ちがわかっているのに、気が付かない振りをして、地球に寵愛を求めておきながら、地球が望んでいる約束を与えないのだから。地球の心を掌で弄んで、気まぐれに近づいたり、離れたりするのだ。
だけど言えない。はっきり言えない。
夏朦は温奈の感情を受け入れる力がない。あの骨格、あの心は弱すぎて、ふとしたことで折れてしまいそう腕は一グラムの愛すら受け止めることはできないだろう。
ううん、いいの、これでいい。温奈は自分にそう言い聞かせた。
これは、毎日の「定例行事」であり、自分に自分は満足していると催眠をかけている。夏朦という月がこれからも自分の周りを回ってくれるなら、近づいては離れるような挙動に動く自分の心は取るに足らないものだ。
そう、夏朦はこれまで離れなかった。二人が出会ったあの日から。不思議な縁が二人を巡り合わせ、今日までお互い手の届く位置にいるのだ。
温奈はかつて、夏朦が自分にとって一生近づいては離れる月であることは、運命なのかもしれないと思った。
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