23 小黄

 幸い彼女たちの家に一番近い動物病院は年中無休で、しかも夜の九時まで営業している。暗い夜の中で、動物病院の純白な灯りはまるで希望に満ちた星々のように明るい。


 温奈はダンボールを抱えて夏朦に診察予約をしてもらった。土曜日とはいえ、診察待ちの動物はそう多くない。彼女の席の傍で、一匹の温厚なオールド・イングリッシュ・シープドッグが姿勢正しく座っていて、大人しく待っている。その目が見えないほどの長い毛はちょっと馬鹿っぽい可愛さがある。看護師が大毛ダーマオの名を呼ぶと、彼は主人の後に立ち上がり、大人しく診察室へ歩いて行った。珍しくも医者を怖がらないペットだ。


 このオールド・イングリッシュ・シープドッグの名前は大毛というのか。彼女はこっそり笑った、名実の伴った名前と言わざるを得ない。


 予約を済ませた夏朦は彼女の傍に座って、俯いて病院の匂いに不安を感じるような子犬を見た。

「小黄は医者を怖がるのかな」

「怖がるでしょ。私たちだって病院は嫌いでしょ?」

「そうだね。人でも動物でも怖がるよね」


 夏朦の憂鬱な顔を見て、温奈も彼女と一緒に少し落ち込んた。病院に行かなくてもいいなら、彼女は多分もう一生人間の病院に入らない。病院に行くたびに、彼女は救急室から出た医者が、首を振って彼女の両親が永遠に彼女から離れたという事実を告げたことを思い出す。一回の事故で、彼女の家族を簡単に奪われた。逆恨みだとわかっていても、病院が彼女の目には断頭台のように見える。そして両親を救えなかった医者は処刑人だ。


 看護師が「小黄」を呼ぶと、夏朦は先に立ち上がった。その時、温奈が反応しなかったことに気付き、振り向いて視線で急かした。


 やはり小黄という名前になったか。もし彼女たちがこの子犬を引き取るのなら、名前も多分小黄のままだろう。小黄でいいのだ。この子犬のために付けたもので、感情を込めて呼ぶものなら、小黄でも大黄でもいいのだ。


 医者は子犬の目と、怪我した足を診て、それから心拍音を聞いた。彼女たちに数日入院する必要があると告げた。夏朦は心配そうに、子犬は全治できるのかと聞いた。医者はその視力が落ちる恐れがあると、後ろ脚にも後遺症が残るかもしれないと言った。でも丁寧に世話をすれば、無事大きくなれるだろうとも言った。


 診察中、子犬は特に抵抗もせず、大人しく医者に検査させ、体重を測らせた。怪我と体中に蚤があることを除いて、他の病気はない。子犬が専用のケージに入れられるのを見て、夏朦は名残惜しくケージの前に子犬にさようならを言った。子犬も二人と別れるのを知ったのか、怪我した足を引きずって起きようとした。


「小黄は大人しくしてね。ちゃんと医者先生の言うことを聞いて治療を受けて、ご飯もちゃんと食べてね。また会いに来るから」夏朦は涙を零れそうにケージの中の子犬を見て、その右手でこっそり温奈の服を掴んだ。


 温奈は優しく夏朦の手を握った。握られた小さな手は強く握り返し、そして辛そうに別れの言葉を告げた。病院でさようならを言うのは重い出来事だ。幸い、今回彼女達はまた戻ってくる。次会う時に子犬はきっと元気な姿で彼女たちを迎えることができる。


 動物病院を離れる前、温奈はカウンターの傍で資料を書き込んでいる夏朦を見ていた。その綺麗な筆跡は学生時代と変わらない。ただその綺麗で整った字を見たいがために、大学時代はよく夏朦にノートを借りたことを覚えている。夏朦と小黄の名前が上下に並んでいた。一時的にとは言え、飼い主の欄に夏朦の名前が見えて、また緊急連絡先の欄に自分の名前が見えると、温奈は思わず自分たちの間に子供ができたように錯覚した。


 夏朦の緊急連絡先は自分だ。なんて幸せなことだろう。些細なことではあるが、温奈は緊急連絡先の五文字から少しの甘さを感じた。友達、同僚、同居人、共犯者の以外に、また一つの新しい身分が増えた。


 その日の夜、温奈は夢を見なかった。洞窟も、崖も、死体のことも夢に出なかった。良質な睡眠は翌日の彼女を爽やかな気分にさせた。目を開いて携帯を見ると、まだいつものアラーム時間になっていない。二度寝するつもりもないので、そのままクローゼットの前に行って着替えをした。


 温奈は思わず視線を彼女に最も隅っこのところに隠された二着の白いワンピースのほうに向けた。今回も彼女は夏朦が気付かれないように、血塗れのロングワンピースを仕舞った。毎回それを見かけると、彼女はその赤い花が咲いた時に夏朦の身を染めた禁断の魅惑を思い出す。その命を救うための純粋な善意、間違いを犯したパニック、そして彼女に助けを求めた依存と信頼、彼女はそれらのすべてから抜け出せないほど酔いしれている。


 温奈は急に自分が人を殺めた夏朦が癖になりそうな気がした。その二つの事件は不可抗力とは言え、これ以上夏朦に罪を重ねさせないためにも、彼女が気を付けないといけない。血の匂いは人間にとって一種の毒だ。摂りすぎると己が身を滅ぼす。だから彼女は偶にその二着のワンピースを見て、こっそり当時の思い出に浸ることにしている。


 あの時に見たマンダラゲを今になって思い返すと、思わず感嘆した。植物全体に毒を持っているマンダラゲについて、違う色の花にはそれぞれ違う花言葉がある。白いマンダラゲは天上に咲く花と言われていて、その花を見た人は罪を取り除かれると言う。人を殺めた夏朦はその神秘的な花のようだ。天より舞い降りた女神は彼女の罪を許したが、それでも猛毒を持った事実を消すことはできない。


 乾いた血の跡は黒い汚れになった。純白の花が闇に染まると、その花言葉も予知できない死へと変わる。温奈はネットで花言葉に関する資料を見た後、最終的にマンダラゲの写真を削除すると決めた。夏朦が花言葉で植物に偏見を抱くことはないとわかっていても、彼女は死や猛毒に関するものを彼女達の生活に持ち込みたくない。


 彼女は自分の部屋の扉を開けて、習慣的に隣の部屋に行ってノックしようとしたら、脳が急に彼女の動きを止めさせた。今日は定休日で、それに昨日あんなことも起きたのだ。まだ朝七時になっていないため、夏朦を起こすなんて忍びない。彼女は手を戻して、静かに廊下を渡って下の階へと降りた。


 この前に取り出した愛玉子オーギョーチー入り冬瓜茶は、色々起きすぎたせいで冷蔵庫に戻せなかった。翌日まで放置した手作り愛玉子は水が抜けて小さくなった。室温で変質した恐れもあるから、全部捨てることにした。幸い愛玉子の種をまだ十分持っていて、冬瓜茶の素もまだある。どうせ暇でやることないし、もう一回作ることにした。


 彼女は愛玉子の種を綿製の袋に入れて、水を入れた鍋で揉みだした。水がゼリー状になって、淡い黄色が見え始めたら冷蔵庫に入れて固まらせる。愛玉子の製作が終わったらすぐに冬瓜茶を作り始めた。甘い香りが店内に充満している。温奈は笑顔で冷たい愛玉子入り冬瓜茶を飲む夏朦の幸せな表情を想像して、飲む前に既に甘味を感じた。


 温奈は彼女たちが初めて一緒に夜市に行った時も、愛玉子入り冬瓜茶を飲んだことを覚えている。あの時は真夏で、暑い天気は夏朦に食欲をなくさせた。夏朦が食べてくれそうな食べ物を探すために、屋台を一軒一軒見て回ったが、夏朦は首を振るばっかりで、食べようとしなかった。夏朦はただ夜市を散策するだけでも面白いから、大丈夫だと言っていたが、それでも温奈は悔しかった。


 彼女から誘ったにもかかわらず、夏朦に何も食べさせられなかった。


 二人が引き返すと決めた時に、彼女は夜市の奥に美味しい愛玉子の屋台があったことを思い出したから、夏朦をその場で待たせて、自分がすぐに買ってくると言った。


 彼女は人波を縫うように進んで、店主が今日は休んでいるのではないかと心配をした。幸い彼女に失望させることはなく、愛玉子入り冬瓜茶と愛玉子入りレモンジュースを手に夏朦の元に戻った。夏朦はきっと気に入る自信があるから、好きな物を色々好きな人に献上したい馬鹿のように、衝動的に夏朦を一人で人混みの中で待たせた。


 途中で急に心配になってきて、もし戻った時に夏朦が見つからないならどうしようと思い始めた。夏朦がうんざりしてそのまま帰ったりしないのか?あるいは悪い人にさらわれたり……事故とか起きたりしたら……


 内心の不安は彼女の足を急かした。歩けば歩くほど速くなり、そして焦ってほぼ走るようになって、ただ一刻も早く約束の場所に戻りたいと思った。向かってくる人波をかき分けて、彼女はやっと人混みの中で静かに待っていた白いワンピース姿を見た。その時に彼女はやっと一息ついた。ゆっくりしたペースで夏朦の傍に戻った。肩を叩くこともなく、夏朦はすぐに彼女を気付いて淡い笑顔を見せた。


 心臓は彼女の胸から飛び出しそうなぐらいにドキドキになって、それを止めるすべが見つからない。さっき急いだせいなのか、それともその笑顔の影響なのか彼女にはわからなくて、ただ目の前の人が大好きということだけを知っている。


 彼女はたくさんの些細な事が理由で、夏朦のことがさらに好きになった。彼女をずっと待っているその姿から離れることができない。夏朦はいつもそうだ。こんな風に静かに待ち、人を疑うことはしない。もしある日に彼女が突然店から消えても、夏朦は店でいつ帰るかもわからない彼女を待ち続けるのではないかと疑ったことすらある。


 しかし、それはあり得ないことだ。彼女は夏朦から離れることはない。夏朦のいる場所が彼女にとっての家だからだ。

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