29 別れ

 温奈が退院手続きをしている間に、鳩おじさんはまるで時間がもったいないと思っているように、ずっと子犬を抱き、俯いて囁いていた。過ごしやすい寝床を用意するとか、たくさんのおもちゃを買ってあげるとか言った。その溺愛な目と馬鹿笑いする姿はまるで新参パパに見えた。


 どうやら年がいくつになっても、初めて子供ができれば、人は馬鹿になるらしい。でも、それは馬鹿なくらい可愛い。


 鳩おじさんは餌をたくさん置いてある棚の前に長時間悩んでいた。どうやら数多くのブランドの中から一つを選べずにいたらしい。医者に子犬がどんな餌を食べるほうがいいか、それと普段お世話する時に気を付けないといけないことを聞いた後、量が一番多い幼犬用の餌を一袋買った。毎日子犬をたっぷり食わせて、もう飢えを耐える必要はないと言い聞かせた。子犬もその言葉がわかっているようで、小さく「ワン」と答えて、とても喜んでいるように見えた。


 会計をして薬をもらうために、鳩おじさんは暫く子犬を温奈に任せた。離れる前に忘れずに子犬に一言「ちゃんとお姉ちゃんの言うことを聞くんだぞ」と言った。一人と一匹は名残惜しい目つきをして、恐らく双方は最初に会った時にお互いに一目惚れしたんだろう。それゆえにそこまで感情を込めた。


 わからないものだね。こんなにも早く鳩おじさんのハートを掴むとは、子犬には魔力でも宿っているのか。温奈は腕の中の子犬を見ながら、心の中でこっそり笑っている。


 子犬が新しい家を見つけたのは何よりも嬉しいことだ。でも温奈は夏朦にもこの場にいてほしかった。夏朦がいたら、彼女たちは子犬を飼えなくても、その目で彼女たちが救った子犬が幸せになるところを見届けることができる。


 子犬は温奈の手を舐めて甘えている。ザラザラした舌は手の甲に涎の跡を残した。彼女は子犬の頭を撫でて、誰にも聞こえない声で子犬に囁いた。


「ごめんね、あなたを助けたお姉ちゃんは来ていない。でもあなたのことを忘れたわけじゃないよ。あなたを嫌いになったわけでもない。許してやってくれない?彼女は……本当は誰よりもあなたが幸せになってほしくて、家を見つけてほしいの。だからその見返りに、ちゃんと幸せになるんだよ!それと、あの日のことはちゃんと内緒にして、誰にも教えてはいけないよ」


 子犬がちゃんとその言葉を理解したのかは温奈にはわからない。だがその黒い目の持ち主は真剣に聞いていて、その耳も声の起伏と共に少し後ろに倒してから前に向けた。夏朦と約束した絵を描くために、温奈は最後にちゃんと子犬を観察することにした。垂れた耳、茶色に近い土色の毛色、細い尻尾に大きい足裏、鼻と目は両方黒い。人の話を聞いている時はじっとしていて、耳だけを動かす。


 観察しているうちに、子犬は突然顔を上げて、温奈の頬を舐めようとした。温奈はそれを止めずに、笑って顔を近付けた。そして、先と同じようなべたべたな感触が頬に残っている。手を上げて子犬の涎を拭こうとする時に、温奈は自分が何時の間に涙を流したことに気付いた。


 温奈は驚きながら涙を拭いて、そして温奈を慰めようとした子犬に礼を言った。


 温奈は悲しく思っているわけではなく、子犬との別れに温奈は切なくも惜しく感じたわけでもない。心から子犬のために喜んでいるが、ではなぜ自分は涙を流してる?


 鳩おじさんは餌が入っている袋を手に持って温奈と子犬の方に歩いてきて、もう片手には新品のペットキャリーを持っている。その見た目だけからでも値段は安くないとわかる。その中にやわらかいシーツも敷いている。慎重に子犬をペットキャリーに入れて、子犬にさよならを言った。子犬も温奈が離れるとわかるように、「うーうー」と何回鳴いた。


「暇があったら店に連れて行くから」と鳩おじさんがそう約束した。


 温奈は微笑みながらうなずいた。鳩おじさんと子犬に向かって手を振ってさよならを言った温奈はずっと遠ざかるその後ろ姿を見つめていた。完全に見えなくなってから、振り向いて夜の中で温奈を待っているハマーの方に歩いた。


 ハンドルを回しながら、温奈は先ほど涙を流した理由を考え始めた。かなりの間考えてから、やっと気付いた。その純粋な瞳に見つめられていたのは、まるで誰かが優しく温奈の言葉を聞いてくれていたようだった。その時、最近の日々の中に我慢していた感情、辛い思いと疲弊は何時の間にか溢れた。夏朦の心強い後ろ盾になるために、夏朦の前で弱い一面を見せてはいけないと自分に言い聞かせていた。


 それに飽きたわけではなく、諦めたくでもない。ただどんなに強くて、どんなに彼女の女神を愛していても、死体遺棄をして、世間の目を避けて、同時に夏朦に元気付けさせようとしたのも、彼女の負担できる限界を超えていた。彼女は自分は強いと思い込んでいた。でも子犬に見つめられていると、温奈が見ないふりをしたストレスは水面上に浮かんできた。


 涙は感情のはけ口となった。泣いた後に、温奈は大分楽になった。


 しかし、夏朦の涙と温奈の涙は違う。温奈の涙は普通の涙で、ただ溜めたストレスを発散するだけのものだ。夏朦の涙は一見普通の涙に見えるが、その透明な雫がとても重い。まるで全世界のために泣いているようで、涙で自分の色をけす。まるで生贄のように、夏朦は自分が犠牲になれば世界の悲しみが少しずつ減っていく感じで泣いている。


 どうすれば、夏朦を慰められる?

 どうすれば、温奈の不器用な両手でその傷付いた魂を繕うことができる?


 温奈はそのまま家に帰るのではなく、ハマーをそのまま直進させ、温奈が思っていた目的地へ向かった。明るいヘッドライトのおかげで、温奈は暗闇の中で迷わずに済んだ。半時間ほど走らせて、温奈はハマーを小さい丘のふもとに止めて、携帯のライトを付けて坂を上り始めた。坂はそんなに急ではなく、家族でハイキングするのに適した場所だ。ただし、町に住んでいる人たちはあんまりここに来ない。この場所の不気味な雰囲気以外に、もう一つ理由がある。それは現代人はあんまり運動をしないからだ。登山やハイキングなんて尚更だ。


 丘を途中まで登って、温奈は足を止めて少し休憩をとることにした。見上げると満天の星が見えて、温奈は思わず微笑んだ。そして、田舎に小さな家を温奈に残した両親に心の中で感謝した。都会より、温奈は光害の影響のない田舎のほうが好きだ。


 温奈は一息ついた。夏朦がまだ家で自分を待っていることを思い出すと、その思いがすぐに自分を励ます原動力となって、脳は指示を出して両足に登り続けるよう催促した。その夜は静かで、虫の鳴き声すら聞こえなかった。温奈は呼吸を数えて、一歩ずつ着実に踏み出していた。でも温奈は丘の頂上まで登ることはなくて、その必要もなかったからだ。


 星空の付き添いで、温奈は静かに丘の頂上に聳え立つ血桜に微笑んだ。微笑んだだけではなく、その微笑みはすぐに歯が見えるくらいの笑顔になった。今宵は月が見えなかったが、月明かりがなくても、温奈は確実に血桜が見えた。密集した白い小さな花は血桜を夜の中で輝いているように見せた。


 静かに咲いている桜よりも、温奈をより喜ばせて興奮させたのは、それを見た時の夏朦が見せる表情だ。


 酔いしれて坂で暫く佇んでから、我に返った温奈は振り向いて坂を降りた。その後、ハマーを夏朦が待っている家へ向かって走らせた。血桜からどんどん遠ざかっていくが、温奈の頭にはその眩しくて愛らしい純白さは未だ消えていない。夜の血桜は夏朦と少し似ている。両者は同じく他人の力を借りずに、月明かりのない真っ暗な夜の中で輝ける。それは彼女たちは元から一番美しくて清らかな特質を持っているからだ。


 それに、夏朦はいつも温奈が不安を感じて迷っている時に、温奈のために前方の道を照らしてくれる。温奈に恐れを感じさせることなく、再び前に進める自信を持たせる。


 温奈は興奮のままにハマーを止めて、鍵を開けて裏口から店内に入った。店内の灯りは付いたままだが、夏朦の姿は見当たらなかった。


 もう寝たのか?温奈はそう考えた。明日、二つの良い知らせを持って帰ったと夏朦に教えようと思って、灯りを消して二階に上がろうと抜き足差し足忍び足をしているところに、階段に座って壁に寄りかかって寝ている夏朦に気付いた。


「朦、なんでこんなところで寝てるの?」


 夏朦に何があったのではないかっと、見かけた時は少し心配した。無意識に夏朦のスカートに血の跡でも付いているのかをチェックした。いつも自分が離れている時に事件が起きるので、温奈の中ではそれが少しトラウマになっている。


 幸い温奈の呼び声を聞いて、夏朦はゆっくりと目を開けて、寝ぼけた声で「おかえり」と言った。そしてまたすぐに目を閉じた。温奈は夏朦が一日何も食べていなくて、さらにその心に悲しみを積み過ぎたから、体力が持たなくて、疲れやすくなったことを知っている。


 階段の入口で寝ている夏朦を見て、温奈は嬉しいと感じた。こんなにも疲れているのに、ここで眠気を我慢して、自分の帰りを待ってくれるなんて。


「さあ、部屋に戻って寝よう」


 まだ目を閉じたまま、うまく立てない夏朦を支えて、温奈は慎重にその紙のように軽い体がちゃんと階段を踏めているのを確認してから、次の段に登った。たった十数段の階段なのに、彼女たちは五分近くもかかってやっと二階にたどり着いた。


 温奈は急いでいない。彼女と夏朦には時間がたくさんある。温奈は自分の一生をかけて夏朦と付き合ってもいいぐらいだ。

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