30 血桜
翌日は温奈が待ちに待った日曜日だ。それは彼女たちが丸一日の時間を使って、外に出て気晴らしできることを意味する。シャッターを上げて、温奈は満足そうに店を出て居心地の良い気温と日差しを感じた。温奈はキッチンに戻ってピクニックで食べるサンドイッチを作り始めた。今日のサンドイッチは少し特別だ。しょっぱいのだけでなく、おやつにできるフルーツサンドイッチもあって、夏朦に二つから好きなほうを選べるようにした。
温奈は鼻歌を歌いながらコーヒーを淹れて、そして淹れたてのコーヒーをマグボトルに注いだ。温奈は順番にマグボトルとサンドイッチを一つの袋に入れた。少し考えた後、キッチンチェストを開けて少量のナッツを取ってタッパーに入れた。そして二つのミカンを取って一緒に袋に入れた。もし夏朦はまだ食欲がないのなら、せめてナッツや果物でカロリーを補充できるようにした。
天気は満点。ピクニックの弁当も満点。
ピクニックシートは……どこかな?
あっちこっち探して、ようやく部屋にあるタンスの隅っこに仕舞っているピクニックシートを見つけた。すぐに見つからないのは、前回のピクニックはもう一年前のことなんだから。一年に一回しか使わない物はどうしても忘れてしまうから、温奈は悪くないのだ。
持つべきものはすべて用意した。後は肝心のヒロインだけだ。
そろそろ普段、夏朦が起きる時間になったのを確認して、温奈はわくわくしながら夏朦の部屋の前にやってきた。手を上げて扉を軽くノックした。
コンコンコン、コン。
起きて、朦。
温奈はしばらく耳を立てていた。返事がないと気づいてから、再び手を上げて扉をノックした。
コンコン!コンコンコンコンコンコン。
行こう!桜を見に行こう。
二秒が過ぎて、何かの物音が聞こえたような気がするが、温奈はそれが夏朦の声なのか、それとも自分の幻聴なのか確かめられなかった。
コンコンコンコン……?
起きたのか……?
四回目のノックをした後すぐに扉は開かれた。温奈は手を戻すのに間に合わず、上げたままの手はそのまま空中で止まった。
夏朦はまだ眠そうな顔をしていて、目をこすりながら「おはよう、もう起きたよ……」と言った。言い終わると困惑したような表情で温奈を見つめていた。なぜ温奈が今日何回もノックしたのかわからないようだった。
「行こう!桜を見に行こう!ピクニックだよ!」
「桜?血桜がもう咲き始めたのか?」その口調はまだ少し戸惑っているように聞こえた。その理由は、今はまだ三月末にもなっていないからだ。普通、桜が咲き始めるのは三月末から四月の初めぐらいなのだ。
「咲いたよ。着替えて歯を磨いて顔を洗ったら、連れて行ってやる」
夏朦を百八十度回転させて部屋の中に押し戻して、温奈は扉を閉じてそのまま廊下の床に座って待つことにした。リストの『愛の夢』の鼻歌を歌いながら、車の中で夏朦に子犬が新しい家を見つけたという良い知らせを伝えるか、それとも血桜の下に着いてから伝えるかを考えていた。
部屋の扉が再び開かれた時、夏朦はお馴染みの白いスカートを着て温奈の前に現れた。夏朦は廊下に座っている温奈に驚くこともなく、声も発せずに浴室に入って顔を洗って歯を磨いた。夏朦が温奈のそばを通った時、スカートの一番外側のベールは温奈の鼻をかすめた。温奈は思い出の中にある海風の匂いを嗅いだような気がした。
懐かしい。卒業以来、夏朦がこのスカートを着るのを見たことないけど、ちゃんとしまってあるんだね。温奈は静かにそう思っている。
そのスカートを見ると、思わず前に妄想した白いベールを思い出した。それはまるで自分の妄想が気付かれて、そしてこっそり叶えられた気分だ。誰に気付かれたのかは、温奈もよくわからない。それがどっかの通りすがり優しい神様かもしれない。
感情が高ぶりすぎたせいか、考えもうきうきしていた。温奈はすでに、夏朦が桜舞う血桜の下で浅い笑顔を見せてくれるのかを想像し始めた。夏朦が笑わなくてもいい。夏朦の目に映る絶望が少しでも減れば温奈は満足だ。
*
彼女たちは昼前に丘の下にたどり着いた。夏朦が登山の途中で気絶しないかを心配していたから、温奈は優しい声で何度も説得して、ついに出発前に夏朦に一杯の豆乳と何口の蜂蜜ヨーグルトを飲ませた。夏朦はつば広のバケットハットを被って、顔の大半を隠した。うなじも帽子の陰に守られている。
温奈は朝から夏朦を観察してきた。夏朦の口数はまだ少なくて、車の中にいる時もずっと窓の外を眺めてぼうっとしているけど、温奈には今日夏朦の調子は前よりかなり良くなった気がした。
これはきっと血桜の力だ。夏朦は血桜が大好きで、去年の春には少なくとも花見を三回行っていた。そして毎回は夏朦から花見をしようと提案してきたのだ。
一緒に短い草の芝生を踏み山を登り始めて、温奈は夏朦のペースに合わせて、一歩、また一歩とゆっくり歩いでいる。時折夏朦の呼吸を気にかけている。その呼吸が乱れて、歩くのしんどくなったのに気付いたら、すぐに足を止めて休憩を取ることにした。
山頂の見えない坂道がかなり続いて、二人は歩くのに集中していて雑談をしていない。多分温奈だけが心の中でこの後、夏朦と話したい色んなことを考えている。子犬のことと鳩おじさんのこと、それに昨夜に見た夜桜の感動も含めている。彼女たちがやっと半分まで登って、血桜の雪色の花びらを一部が見えた時、温奈は血桜に指差して、興奮しながら夏朦にもうすぐ着くと告げた。
夏朦が遠く見上げて、血桜がその目に映った時に、夏朦はやはり温奈の予想通り、一瞬に消えた驚いて喜ぶ顔をした。
「本当に咲いてる」
「嘘じゃないでしょ」
「うん、奈はすごい、どうして血桜が咲いたのを知ってるの?」
「実は昨日こっそり見に来たんだ。花が咲いたのを見てすぐ教えたかったが、昨日疲れていたようなので、今日話すことにした」
「昨日……小黄は……元気なの?」夏朦は少し不安そうに聞いた。
「小黄はほとんど治っている。すごく元気だよ、それに……」
温奈はわざと言葉を伸ばし、にやりと夏朦を見ていて、勿体ぶろうとした。
「それに?」夏朦は急いで聞いた。でも温奈の笑顔を見て良い知らせがあるとわかっているから、その声には少しの期待がこもっている。
「鳩おじさんが小黄を引き取ってくれて、小黄は新しい家を見つけたのだ!」
温奈は得意げにずっと胸に仕舞っていた良い知らせを伝えた。やっとこの情報を夏朦の耳に届いたことに感動した。これまではまるで相手の誕生日の前に既に誕生日プレゼントを用意し、毎日早く送りたいと思って日数を数えている気分だった。
「本当?」
「本当!」
透明の涙はその眼窩に溜まらず、そのまま頬を滑り落ちた。温奈は事前に用意したハンカチで、優しく夏朦の涙を拭いた。
「よかった……本当に良かった……」
「だからもう心配しなくていいよ。ほら、あなたの祝福を受けたから、皆幸せになれたよ。小黄も、鳩おじさんも、店の植物たち全員も。それに……」温奈は少し間を置いてから、口を開いて「私も」と言った。
手を夏朦の頭に乗せて、一回とまた一回と軽く叩いて慰めた。温奈はそのサラサラな髪の毛を自分の指ですいたいが、今は帽子が日差しを遮るという大事な任務を遂行しているので、暫くはその小さな欲望を仕舞っておこう。
慰められても涙を流し続ける夏朦を見つめて、彼女の女神は少し戸惑っているように見えた。まだ自分がどれだけの人間を、特に温奈を幸せにしたのかわかっていないようだった。温奈はこの言葉を通して、夏朦の心の中に立ち込める暗雲を晴らしたい。夏朦が温奈の言葉を聞き入れて欲しい。そして、もう二度と自分自身を傷つけることをして欲しくない。
夏朦が自分を許せるようになるのは難しい。とても難しい。何せ彼女たちは元々罪を犯したから、自首してその罪を償うべきだ。心の中に隠したことで、大きすぎる負担となった。しかし、温奈は夏朦から離れたくない。夏朦が刑罰を受けるのも見たくない。彼女自身が罪を被って、夏朦を一人にする勇気もない。
それでも……温奈は、夏朦が自分自身を許してあげることに対して希望を持ちたい。たとえそれがどんなに微かな希望でも、温奈はその願いが叶う日が来ると信じたい。彼女の女神は悪くない。彼女たちは何も悪くない。悪いのは全部くそったれな運命の女神だ。
その涙がすでに止んだのを見て、温奈はハンカチで夏朦の最後の涙を拭いて、相手の手を繋いだ。まだぼうっとしている夏朦に笑いかけて「行こう。もう少しで着くから、頑張ろう!」と言った。
夏朦は温奈に繋がれるまま、一歩ずつ踏み出して行った。ゆっくりと坂を登ると同時に、手に握った小さな手はこっそりと軽く握り返した。当然温奈の掌はこの些細な動きを見逃さなかった。温奈は浮き浮きの気持ちを押さえ、その両目は目の前にある血桜を真っすぐ見て、微笑んだ。
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