31 ピクニック
傷一つない血桜はまるで雪のように白い。まだ満開になるわけではないが、驚嘆に値する十分に壮観な景色だ。血桜はこの丘の上でたった一本の木だが、その姿からは寂しさを全く感じられない。外へと伸ばして天をも遮ろうとする枝のおかげか、それとも一つ一つの小さな花が隣り合わせで綿密に生えている光景のおかげか、血桜はちっとも寂しくないように見えて、むしろ一人でいることを楽しんでいるように見える。
一人で悠々自適に生きていくのが、多分こんな感じなんだろう。もし血桜が人の姿をしていれば、きっと強い心を持ち、すべての生命を優しく受け入れる人だと、温奈はそう思っている。
まだ血桜の木陰の中に入っていなくて、温奈の後ろについている夏朦急に止まった。温奈は手の中のちゃんと握っていないあの小さな手は温奈の前進速度のせいで離れようとしていることを感じて、慌てて夏朦と一緒に足を止めた。振り向いて見ると、夏朦は血桜を見上げていた。一言も発さずに、ただ静かに見つめいていた。
温奈はそのまま、自分のペースと仕方で血桜を観賞している夏朦をじっと待っている。二人の手は離れていない。温奈の注意は血桜にではなく、彼女の最愛の人に向けた。夏朦は左手で帽子を取り、目を細めて明るさになれてから、目を完全に開けた。温奈は夏朦の目の変化を観察するのが好きだ。あまり日差しの中を歩かない夏朦は人より太陽の光に慣れていない。その目を細める仕草はまるで猫が明るさの変化に順応するために、瞳孔を細長くするのと似ている。その仕組みは完全に同じではないが、夏朦の仕草は猫のと同じように可愛い。
春風が吹いている。長い髪は風になびいて、白いスカートのベールも一緒に浮いてきた。風に吹かれて、数枚の花びらが飛んできた。その中の一枚はススキ色の髪について、白くて眩しい。
もしもう何枚かの花びらが飛んで来たら、天然の花かんむりになるのかな。草縄で編む必要もなく、適当に飾れば、彼女の女神は瞬く間に春の神と化す。その微笑みは春風を連れてきた。夏朦が歩いた場所には花草が生え、一挙手一投足が世界に命をもたらしてくれて、そして温奈に元気をあげる。
温奈はそう考えながら馬鹿笑いしていた。安直すぎる考えだが、温奈はそれを結構気に入った。温奈にとって、夏朦も彼女の春だ。
夏朦は彼女の月、彼女の女神、彼女の蓮、そして彼女の最愛の人である。夏朦にはいろんな代名詞がある。でも最も適切なのはこれらのいずれでもないかもしれない。
温奈は愛しい目でその光に照らされておぼろげになり、そして桜に飾られた幻想的な姿を見ていて、思わず微笑んだ。
夏朦は彼女のすべてだ。
冷たい小さな手が温奈の体温に染まって、普段より暖かくなっている。これに対して温奈は達成感を感じた。夏朦が血桜に集中している内に、温奈は引き続き自身の体温を胸骨が見えそうなぐらいにやせ細った身体に伝えて、二人の体温を一致させるよう試みた。夏朦の目に映る血桜にうっとりして、温奈は去年桜を見に来た時、夏朦も今のように正午から日没まで見ていても飽きなかったことを思い出した。
あの時、夏朦が何を言ったのかを温奈はまだ覚えている。
「血桜はひと冬の残雪全部が集まっているようなもので、冬と春の架け橋だ」
「どういうこと?」
「彼女は冬の厳しい寒さを記念して雪のような花を咲かせて、そして舞い落ちる残雪で春を迎える。血桜は冬と春を愛する子だ。この二つの季節が好きなら、彼女は優しくて、世界のすべてを受け入れてくれるものだとわかる」
「彼女に血桜という名があっても?」
「名前は人間が付けたものだ。それが彼女のすべてではない」
「でも気にならないか?血桜という名の由縁を」
「気にはなるけど、でも血桜自身も忘れたみたい。多分、それが昔すぎる話だから」
彼女たちの会話は今でも目に浮かぶ。夏朦の血桜に対する解釈はまるでおとぎ話のようにロマンチックだ。実際、名の本当の由来がどうであれ、血桜が血桜や雪桜と呼ばれても、温奈は夏朦の視点でこの桜の木を認識するほうが好きだ。
夏朦が視線を戻すと、温奈は微笑んで夏朦の手を繋いで木の下まで歩いた。そして、温奈はピクニックシートを敷いて、一番良い花見ポイントを独占した。温奈は自分が用意したサンドイッチを取り出し、得意げにその切断面の方を夏朦に向いた。
「お腹すいた?今日は二種類のサンドイッチを作ったよ。ハムサンドイッチを食べるか?それとも期間限定のフルーツサンドイッチを食べるか?」
夏朦は温奈の左右の手に持っているサンドイッチをそれぞれ見てから、首を振ろうとしたが、二秒躊躇って、結局手を伸ばしてフルーツサンドイッチを受け取った。温奈は心の中で両手を上げて歓呼した。自分の突発的な発想に従って、爽やかな味を作って良かった。温奈の費やした工夫と時間は、夏朦が手を伸ばしたその一瞬で価値を得たのだ。夏朦がサンドイッチのフィルムを剥がして、その三角形の先端に小さく一口を噛むのを見て、温奈は涙が出そうなくらい感動した。
夏朦が固形物を食べてくれないのはもう何日なのか。でも自虐的な断食モードも今日で終止符を打った。
「おいしい?」夏朦が中にあるいちごを噛んだ時、温奈は我慢できずに聞いた。
「おいしい」夏朦は惜しまずに肯定してくれた。
どれも小さく一口一口噛んでいるが、トーストに挟んだ中身が押し出されて少し溢れ出した。夏朦の口元に生クリームがついていて、少しいちごのピンク色も混ざっていた。
赤い唇に生クリーム、この絶妙で魅惑的なコンビに温奈は目を離せなかった。夏朦の注意は花びらに引かれていて、手を伸ばしてそれを受け取ろうとすると同時に、温奈も夏朦に手を伸ばした。
少し、あと少しだけ近付けば、自分の指はその魅力的な生クリームに届く。温奈はすでに頭の中でその生クリームを口に入れるとどんな味がするのかを想像している。しかし、夏朦は温奈の動きに気付いた。その透き通った目で見つめられると、温奈は思わず恥ずかしくなった。それは夏朦がやっと何かを食べてくれたのに、自分が変な想像をしていたから。もし夏朦がこの曖昧な動きに驚いたら、自分はどう挽回すればいいのか。
温奈は仕方なく気まずそうに手を戻して、生クリームがついた位置を指さして「ついてるよ」と言って、ついでに夏朦にティッシュを渡した。
夏朦が生クリームを拭いた時にありがとうと言った。温奈はきれいになったその唇を見て少し惜しんでいた。前に明るくて人懐っこい夏朦を二度見てから、本来鍵をするべき感情はちょくちょく勝手に出てきて、温奈は少し困っている。
三十分が過ぎって、サンドイッチは半分しか減っていない。夏朦はどうしようかって手に持っているサンドイッチを見て、そして温奈を見て、温奈が見たら絶対に断れないような表情をした。毎回温奈に手伝ってもらう時、温奈のことを奈奈と呼ぶほか、その目つきからもお願いをするメッセージを送っている。温奈は自然と半分残ったサンドイッチを受け取った。夏朦の食べきれない食べ物を処理するのは何時も温奈の仕事だ。
サンドイッチの半分、それはかなり大きな進歩だ。このペースで少しずつ夏朦の食べたいという欲望を引き出して、ゆっくりその体を保養する。温奈は次にどんな料理で夏朦の食欲を引き出すのかを考えている。
物々交換のように、温奈は片手でマグボトルの蓋を開けて夏朦に渡してから、ボトルを傾いて熱々のコーヒーをコップとなった蓋に入れた。濃厚なコーヒーの香りは周りに漂っている。夏朦も深く息を吸ってから、ゆっくりと彼女たちの日常に欠けてはならない熱い飲み物を堪能した。
サンドイッチを噛んで、いちごの酸味と甘味を柔らかい生クリームに弾かせた。それらが甘い渦と化してお腹に入ってから、温奈は桜に覆いつくされた空を見上げた。果てしない白は夢幻のように美しい。今の彼女はまるで夢の中にいるようで、美しい景色と彼女の女神が傍にいる。その時、温奈は時が永遠に止まってほしかった。これ以上時間が流れてほしくなかった。
その後、およそ一時間、誰も喋らなかった。温奈は偶に視線で舞い落ちる花びらを追っているが、そのほとんどの時間、温奈はやはり夏朦を見つめていた。いつの間にか夏朦の頬にまた透明な涙が流れている。今回温奈はただハンカチを渡して、自分で夏朦の涙を拭かなかった。花びらが落ち続けている限り、その涙も止まらないからだ。
桜は花を咲かせていられる期間は短い。柔らかい花びらはあくびをして世界におはようを言ったすぐに、さようならを言う準備をしている。夏朦は彼女たちのために泣いている。舞い落ちた一枚一枚の桜の花びらと別れている。花見もまるで悲しくも美しい葬式のようで、哀悼者が二人しかない葬式だ。
「奈奈、ごめんね」
突然、夏朦は脈略もなくそう言った。温奈はその意味がよくわからなかったため、あるかどうかわからないその言葉の続きを待っていた。
「ずっと心配ばかりかけてごめんなさい。私はひどい人です。もしいつか奈奈が疲れたら、離れてもいいのよ」
「疲れるなんて、疲れたりしないよ。あなたは全然ひどくないから、離れるなんて言わないで……」
突然の言葉に温奈はびっくりし、手を伸ばして夏朦の顔を自分のほうに向かせた。温奈はあの日、浴室の前で夏朦と約束を交わしたように、夏朦がうなずくのを見なくちゃいけない。
温奈は内心混乱している。それはまるで毛糸が絡まり、幾つもの結び目ができているようだ。そして、その一つ一つの結び目が疑問と恐怖である。どうして夏朦がそう言うのか温奈はわからない。自分のしたこと全てが夏朦を不安にさせたのか?それとも、一種の見えない負担となったのか?
「うん、奈奈が離れたくないなら離れなくていいよ。ただ奈奈は人が良すぎるから、いつも私の都合に合わせている」
「都合に合わせてないし、無理もしてないよ。私は……」温奈は突然言葉に詰まった。
『あなたが好きだから、ずっとあなたの傍にいたいのだ』
温奈はこの白日の下に晒すべきではない告白の言葉を全部言っていなかった。
「うん、わかってる。わかってるの。だからこそごめんなさい。もう心配させないため、ちゃんと良くなるよう頑張るから」
わかってる?夏朦が言っった『わかってる』とは、何の意味なのか?自分が夏朦に対する気持ちがわかるの?いや、ありえない。夏朦はきっと『私は』の後の言葉が『あなたが大切な友達だと思っているから』と思っているはずだ。でもそれでいいのだ。夏朦は温奈の心の中で、夏朦が大事な存在だとわかっていればいい。
そよ風は柔らかい声を温奈の耳元に連れてきた。温奈に見つめられている目からはまだ涙があふれているが、そこには漂っている絶望以外、小さな光も見える。それは頑張って元の健康な状態に戻ろうとする決意だ。
温奈は心を痛めながら感動した。ついに我慢できずに目の前にいる人を腕の中に抱いた。この涙に洗われて透明になりそうな体が温奈の目の前から消えないように、ちゃんと抱きしめないといけない。
夏朦は顎を温奈の肩に乗せている。その骨は温奈の肩を痛ませたが、温奈は夏朦を離せなかった。舞い落ちる花びらを見つめて、彼女は瞬きをして夏朦に見せたくない涙を払った。
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