47 番外編|変化(夏朦)

 霧状の水が葉っぱに撒かれていく。そして小さい水玉はどんどん集まって、葉っぱの曲線に沿って滑り、その先端から別の葉っぱへと落ちる。夏朦は小さなスプレーボトルを持って植物たちに水やりをしていて、彼女たちには室内で育っても朝露を堪能できるようにしている。


 夏朦は静かに植物たちの喜びの声を聞いて、思わず口角が上がって微笑んだ。夏朦は一日の始まりに植物たちの言葉を聞くことが好きだ。その内容はほとんど変わらないが、彼女たちは常に素直に気持ちを表現している。嬉しい時は心地よい銀の鈴のような声を出す。夏朦が水やりをしている時にありがとうとか、今日の太陽はなんて温かいとか、気温がなんて過ごしやすいとかを言う。彼女を必要とする時に助けを求めたりもする。


 荼蘼を除いて。


 夏朦は試しに荼蘼に何か助けがいるのかって聞いたことがある。しかし、荼蘼は何も喋らなかった。夏朦の言葉はまるで静寂に吸収されたようで、返事は得られなかった。荼蘼が憔悴してゆく姿を見て、夏朦は声なきため息をした。温奈は一緒に荼蘼を医者に連れて、そして病気の原因が見つかると良いと言った。


 もしかして荼蘼は人間が彼女に付けた花言葉や物語を知っているから、恐れを感じているのか?自分を健康にしないようにして、そうすればあの悲しみを持った小さな白い花たちも咲かない。


 でもあれは人間の勝手の解釈で、荼蘼自身がそう言っている訳ではない。小さな白い花が咲いても終わりを意味する訳ではない。

 夏朦は荼蘼にそう言ったことがあるが、それでも同じように、その言葉は受け入れられなかった。


 花言葉は人間が植物の特徴や習性を観察して、自分の見解をもとに与えたものだ。大多数の植物にとっては彼女たちの存在をより特別にしたロマンチックなプレゼントかもしれないが、一部の植物にとっては悲しい呪いとなっている。


 呪いと言うのは少し過激すぎたかもしれない。だけどそれは彼女たちが拒みたくても、自身の力でかき消せない呪文だ。たとえ彼女たちが声を出して反論しても、誰も聞こえないし、誰も気にしない。彼女たちはただ黙ってその『花言葉』というものを受け入れるしかなかった。


 荼蘼を見ていると、夏朦は悲しく感じるが、どうしようもなかった。夏朦は人々が彼女たちに無理矢理付けた言葉の定義を変えれない。でも彼女も時々植物の花言葉に含められたメッセージを気に入っている。それはまるで耳元で軽く囁かれた秘密のように、優しくてロマンチックだ。


 だがもしそれが植物たちにストレスを与えて、彼女たちが自分を嫌いになってしまっているのなら……

 それならば、花言葉なんてなかったほうがいいのかな?


 夏朦は立ち上がり、思わずキッチンに目を向けた。夏朦の傍にはいつも温奈の姿が見える。振り向けば大抵その彼女を安心させる存在が見える。夏朦はずっと温奈をすごいと思った。賢くて有能で、それなのに全く驕らない。人にやさしくて、まるで温かい小さな太陽のようだ。特にキッチンでの温奈はまるで魔法使いのようで、いつもたくさんのおいしい料理を作り出して、美食でみんなに幸せを与えている。


 鳩おじさんも、夏朦も、毎日温奈の料理からエネルギーが得られる。それで再び体のゼンマイを巻くことができて、元気よく新しい一日を迎えられる。


 夏朦は今朝部屋を出る前に首につけた香水のことを思い出した。その匂いがあっさりしていて清らかで、夏朦が好きな匂いだ。先月の誕生日の時に、温奈は毎年のように夏朦に香水を贈った。そういえば、あれは大学の頃からの習慣のようだ。


 学食で出会ってから、毎日一緒に授業に出ていた。運動会前に走る練習に付き合って、そして温奈が運動会で一位を取れて、彼女たちは四六時中一緒にいて、相手の誕生日を祝ってくれる友たちになった。夏朦は時に温奈に文房具、時にはキッチン小物を贈っている。夏朦の贈り物に決まったジャンルはないけど、温奈は何時も夏朦に香水を贈っている。


 香水は植物ではないけど、植物と同じように喋ることができて、香りの中にこっそり隠された秘密の言葉を喋っている……


 夏朦が人の命を奪った罪人として、幸せになるべきではなく、このまま生き続けるべきではないのに、夏朦はこの心中を明かす勇気がない。温奈に彼女自身がまだ自分を責めていることに、そして今も苦しくて逃げ出したいことに気付かれたくない。


 前回、浴室でのあの一撃と温奈の涙は夏朦を驚かせた。夏朦は背負った罪のせいで苦しんでいて、温奈の涙と歎願のせいで苦しんだ。そしてその傷痕を……見かける度に、まるで自分の掌も切られたようで、痛くて、とても痛く感じる。それは二度と刃物で自分を傷つけられなくなるほどの痛みだ。


 夏朦は自分のわがままが憎い。浴室で迷っていた間、夏朦は扉が乱暴に叩かれた音を聞いて、涙を流しながら自分の手首を見ていた。細い血痕はまるで彼女を死の抱擁に誘っているようだった。だけど温奈の叫び声は夏朦を戸惑わせた。夏朦は自分がそのまま離れたくなくて、温奈一人に罪を背負わせたくなかったことに気付いてしまった。


 二つの思いがぶつかった後、結局夏朦はドアを開いた。逃げることではなく、現実と温奈と向き合うことを選んだ。


 温奈は楽しく過ごすべきだ。温奈は皆の温かい光だから、いかなる悲しみも温奈を汚すべきではない。それなのに、どうして自分はこんなにも温奈を苦しめるのか?


 不幸中の幸いなのは、温奈はいかなる負の感情にも汚されていない。夏朦の悲しみに影響されることなく、依然として優しい太陽のように輝いている。その笑顔は眩しくて、まるでこの世のすべての幸せを夏朦にもたらしてくれるように、ただ夏朦を絶望の淵から救い出したいためだ。


 生きる資格のない夏朦に対しても、温奈は優しくそばにいてくれた。何も食べたくなくても、あの手この手で工夫しておかゆを作ってくれた。もしかしたら前より優しくなっているかもしれない。夏朦に大丈夫だと言い続けて、生きても大丈夫だって。これらのことは全部彼女のせいじゃない。あれはすべて運命の女神がとっくに書いた終止符だから、誰も逆らうことができないことなのだ。


 その言葉を聞いた当時、夏朦は急に救われたような気がした。もしそんな風に罪をすべて運命の女神のせいにできれば、もう少し自分を許してもいいではないか?また温奈に頼り続けて、これ以前のように甘えられるのか?


 温奈に頼るのは楽だ。でもこんな夏朦はすごく悪いのだ。温奈の包容力と甘えを貪り、温奈がくれた香水まで付けて、花言葉に隠された感情を感じようとした。


 夏朦は知っている。温奈が夏朦に対して友情以外の何らかの感情を抱いていることに薄々気付いている。多くのサインがあったし、微かな手がかりもたくさんあった。しかし、夏朦にはどうするべきかわからない。夏朦は気付かない振りをするしかなかった。避けていれば、向き合わなくて済むから。そうすれば誰も傷付かない。夏朦が本心さえ隠して、母さんが望んだ良い娘になれば、例え母さんが全然彼女を愛していなくても、素敵な安寧を維持できて、自分が幸せだと演じ続けられていた。


 夏朦はずっと自分が人間を演じることに向いていないと思っている。すべての感情は夏朦にとって重すぎる。夏朦が唯一耐えられる感情は悲しみである。静かで、まるで小川のように流れている。だが悲しみも量が多すぎたら、小川が激流となり、彼女を遠く深いところまで流して、その水の中に溶けて、消えてなくなる。


 愛とは何なのか?夏朦はもう正しく愛というものを理解できなくなった。夏朦がずっと求め続けた感情はその過程で見失った。時間のブラックホールに吸い込まれて、二度と取り戻せないのだ。もしかして、愛を味わったことがないことで、夏朦は同時にそれを感じる能力と与える能力を失ったのかもしれない。夏朦は自分自身を感じられない。植物たちの囁きを聞くこと通して、色のない自分を彩るしかない。


 もしかしたら、夏朦の本当の救いは温奈しかないのかもしれない。温奈だけが夏朦の怯える時に背中をさすって、夏朦の手をしっかり繋いでくれて、一緒に暗闇から抜け出す。生き続けてもいい許可を、温奈はちゃんと目と言葉で夏朦に伝えてくれる。


 どんなことが起きても、彼女の奈奈は彼女を守ってくれる。


 夏朦は口角を上げて、目を少し細めて温奈を見つめている。温奈は夏朦が自分を見ていることに気付いていなくて、その注意が携帯に向いている。クチナシの香りは優しく夏朦を包んで、夏朦の心も軽やかになっている。夏朦は自分が楽しいということに気付いた。まるで罪悪感の束縛から解放されたようだ。サンドイッチの中に挟んだイチゴジャムのような、ほんのり甘い感情を少しわかってきたようだ。


 夏朦は笑顔で振り向き、再び荼蘼に向かい合って、二度と蘇らない枯れ枝と落ち葉を切った。夏朦は荼蘼に、与えられた運命に打ち勝てるため、自分の本当の花言葉を見つけようという、励ましの言葉をかけた。

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