48 番外編|日記(夏朦)
黒いインクは紙の上を優雅に滑っていき、一筆画ごとに綺麗な文字を綴っている。分厚い日記帳はすでにその持ち主と共に無数の年月を立て、数多の出来事を記録してきました。今現在、このページもすぐに文字で埋め尽くされていく。しかし、数滴の涙が突然天から降り注ぎ、インクがまだ乾いていない文字をぼかした。
ペンの動きも急に止まった。夏朦はまるで一時停止のボタンが押されたように、全く動けなくなった。透明の涙だけが紙に零れ続けていて、彼女の空っぽな心にも落ちている。その心の中で小さな水玉が跳ねる音がこだましている。一滴の涙が跳ねるたびに、苦しい思い出を思い出させる――炎熱、子犬、男、酒の臭い、暴力、恐怖、逃走、掴まれること、刃物の柄、振り下ろし、鮮血、血、血、血……
死体の感触はまだ肌に残っている。気持ち悪い余熱が汗でびっしょりになって掌にこびりつき、思わず吐き気がして、胃痙攣を起こした。夏朦はその時両手でしっかり男の足を掴んでいることを覚えている。全身の力を使っても、彼女よりそれほど背が高くない男を完全に地面から引き離せなかった。彼女はどれだけ役に立った?少しも役に立っていないかもしれない。温奈がいなかったら、誰かに発見されるまで、あの死体はそのままあの小さな公園で放置され続けるだろう。
刃が人体に入った瞬間、彼女ははっきりと命が彼女の指の隙間をすり抜けた感触を感じた。すごく軽い何かが天に昇って、そしてまるでシーソーのように、彼女を高速に地面に落とした。彼女は青すぎる空を眺めるしかなかった。そこから消えてゆく命を探し出したいが、彼女はどう探しても見つからない。強烈な日差しは彼女の目を刺激し、涙で視界がぼやけて、血塗れた両手がよく見えなかった。血液が彼女の手に注いだのに冷たいとしか感じなかった。多分罪悪感のせいで、彼女は血液のあるべき熱さを二度と感じなくなった。
だがその時、彼女の手は暖かい毛皮に触れた。俯いて見ると、一匹の子犬は彼女のそばに寄った。後ろ脚と目は怪我をしていたが、頭で彼女のぶら下がる手をこすっていた。
子犬は、血が怖くないのか?
人を殺した彼女が怖くないのか?
ぼやけた視界の中、彼女は手を伸ばして子犬を膝の上に乗せた。子犬はまるで小さな太陽のように、温かくて鮮血の冷たさを和らげた。
子犬はシーソーの向こう側に乗って、彼女の崩れたバランスを取り戻した。彼女は頑張って体を起こして、片手で慎重にその小さな命を守って、片手で地面に落ちたナイフを拾い、大樹のほうへと歩いた。
隠さなきゃ、気付かれちゃダメ、この子犬を守らないと。
その大事な使命があるから、頭の中が混乱していても、彼女は両足に行動するように催促することができる。そして暗闇に陥った彼女には、彼女を導くもう一つの光がある。
彼女は迷わず携帯を取り出し、震えた指で二人しかいない連絡先の電話帳を開き、その人の名前を押した。その人はいかなる時でも、一番早く彼女の元に駆け付けてくれる人だ。
彼女の期待した通り、温奈は再び彼女を見つけた。彼女がどこで待っていようと、彼女の奈奈は彼女を見つけられる。
空っぽの心は彼女が子犬をその手で救ったことで温かさを取り戻した。温奈の付き添いもあるから、脈動し続けている。安定した心拍は徐々に遠退いた彼女の意識を呼び戻した。彼女は瞬きをして手で涙を拭い、その視野はクリアになった。日記の内容の何箇所は涙のせいで読めなくなったが、紙にぼかしたインクの跡はちょっと小さな黒い花に見える。
夏朦は小さな黒い花が彼女の日記帳の中で咲くことを気にしない。紙は彼女の平野で、彼女の好きなように墨色の花を育てられる。過剰な感情を耐えられない心は、その余分を文字にして日記の餌にするしかない。犯罪の過程を記録するべきではないことは彼女もわかっている。でも書いていかないと、彼女は自分がまるで猛獣のような罪悪感に蝕まれて、徐々に人の形じゃなくなると感じた。
もし温奈がこのことを知ったら、きっと夏朦を責めたりしないだろう。温奈はいつも優しいから、夏朦に刃物を持たせないためなら、拒食させないためなら、何でもする。夏朦も自分を傷付けることで相手に強要したくない。ただ……彼女は時々この世を去りたい衝動を抑えきれなくなる。自分の血肉と命で罪を償いたい。もし温奈の罪も一緒に消せればなお良い。
彼女は考えていて、そしてペンを動かし続けて最後の空白を埋めた。
でも、子犬は今ちゃんと動物病院で治療を受けている。タンポポも可愛い小さな黄色い花を咲いた。彼女は自分がすごく楽しいと感じた。もし鮮血を新たな命に変えられるのなら、何のためらいがあるのか?その小さな命たちも幸せになるべきで、自由に呼吸、成長するべきだ。その代償として、彼女は永遠に悪夢に苦しめられても後悔しない。
彼女たちは運命の女神への反抗を成し遂げた勇者だ。彼女たちは運命の女神の羽ペンを奪い、彼女たちの楽章を勝手に書き足すことを阻止した。彼女たちの旋律は、彼女たちの手で織りなすべきものだ。
楽曲のことを考えると、夏朦はペンを置いて手元に置いてあるアルバムを見た。彼女は手を伸ばしてそれを取った。馴染み過ぎているから、数ページも捲らない内に彼女の探したい写真を見つけた。写真の中の温奈は黒い服を着ていて、黒いスーツコートも着ていた。普段のカジュアルな恰好とはかなり違っていた。あの時、彼女たちは課題レポートを仕上げるためにコンサートを聴きに行った。彼女は演奏者の名前をよく覚えていないが、演奏された曲は全部リストの作品ということだけは覚えている。
コンサートが始まる前に温奈はバイトがあったから、彼女たちはコンサートホールの前で待ち合わせることにした。滅多に正式な場に出席しない彼女はクローゼットの前でかなり悩んでいて、ようやくギリギリ正装と言える長袖の白いロングスカートを選んだ。彼女は十分も早めに着いて、コンサートホールの入り口付近で温奈を待っていた。
彼女はすっかり人を待つことに慣れていた。いくら待たされても問題ない。なんなら、相手にすっぽかされても怒ったりはしない。彼女はただ少し悲しくなって去るだけだ。約束の時間まであと五分のところ、温奈が慌てて遠くから駆け付けてきたのが見えた。急いだ足取りがまるで遅刻したように焦っていた。彼女はかっこいい黒服を着た温奈が自分の前に立ったのを見ていた。そして、温奈が微笑みながら彼女に『お待たせ』と言った。
そんなに長く待っていなくて、たったの五分だった。でも温奈はこんなにも急いでいた。それはまるであと一分でも待たせたら彼女が離れられるような感じだった。その気持ちは恐れ?不安?
これが初めてではなかった。温奈はいつも慌てて彼女のそばに駆けつける。前に夜市に行った時もそうだ。温奈が
温奈と出会う前にはこんな風に彼女のことを思ってくれる人はいなかった。彼女は自分の本心を隠した生活に慣れ過ぎていた。時間が経つと、彼女も自分自身のことを軽く扱うようになった。時々自分にも悲しみ以外の感情があることを忘れるぐらいに軽い。
しかし、温奈がこんなにも彼女の気持ちを大事にするのを見て、彼女は思わず考え始めた。もしかしたら自分の感情を持つことは、とても大事なことかもしれない。偽ることのない、本当の気持ちを、叱られることを心配することなく、束縛を振りほどいて自由に感じてもいいと思い始めた。
彼女は自分が温奈に微笑んで、一緒にコンサートホールに入ったことを覚えている。二人は並んで座り、舞台の前の灯りを見つめていて、広いコンサートホールに響いた激しい楽曲を聞いていた。演奏家の姿はぼんやりしていた。それは多分、彼女の目からいっぱいに溜まった涙が溢れたせいだった。その時、聴覚は鋭くなった。彼女はリストの『ラ・カンパネラ』を聞いていた。爽やかなピアノの音の中、彼女は隣にいる人の心音が聞こえるような気がした。それはほとんどリズムに合わせているように、強くて早く動いていた。
それは単なる彼女の妄想に過ぎないということは、夏朦も十分わかっている。それでも思わず想像を走らせた。さっき温奈が早足で歩いてきたから、未だに心拍は安定していないのかと考えた。
リストの作風が激しすぎてよく高ぶっているから、昔の彼女が好きそうにないものだ。音階の鮮烈な起伏はなんて人間らしい。豊かな感情はまるで彼女を巻き込むようなものだった。でも今日は意外とあの軽やかに跳ねる音符を好きになった。それがまるで一日の朝に彼女を呼び覚す温かい太陽の光のようだった。
彼女は淡い笑顔になり、こっそり目を閉じた。涙がその動きで零れ落ちたが、彼女は気にすることなく、暗闇の中で明るく透き通った楽曲に導かれて走り続けた。
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