49 番外編|選択(夏朦)
夏朦がうまく眠れない夜はもうどれくらいになるか。あの暴風雨の日からずっとそうだ。深夜の静けさは一種の拷問になっていて、白日の下でさらけ出される希薄になった感情はすべて呼び覚まされて、緩やかだが確実に彼女を苦しめている。
罪悪感はまるでお化けのように彼女の心の中で徘徊している。時々心臓から飛び出して、強くも弱くもない力で彼女の首を絞めて、呼吸できないようにする。恐怖はとっくに彼女の全身に蔓延り、色んな不安や恐れが融け合って暗い混沌と化し、血液と一緒に流れている。
夜中に天井を凝視する時だけが、悲しみは少し薄れる。それはまるで取り残された子供のように、一人で隅っこにしゃがんでいる。他の激しい感情に比べると、悲しみははるかに静かだ。だから彼女が涙を落としても、偶に自分が何のために泣いているのかを忘れてしまう。彼女の感情はとっくに絡まった毛糸のように、最初の糸口が見つからない。
今夜、彼女は相変わらず眠れないが、彼女を困らせることはそれらの感情ではなく、ある重要の決断だ。
父さんが海外に移住するということを知った日から、彼女はその問いについて考えていない時はない。
父さんたちと一緒に海外で暮らすのか?
実はその言葉を聞いた当時、彼女は驚きのほかに、嬉しくも感じた。父さんは彼女のことを忘れてはいない。未来の青写真の中でも、彼女の席を残してくれたのかもしれない。だからこそ、決定権を彼女に委ねた。ただ黙って離れるのではなく、彼女に引っ越しを強要するのでもなく、彼女に選択の自由を与えた。
温奈に出会う前なら、彼女の答えは一つしかないだろう。残るかどうかを悩む必要はない。家が彼女にとってのすべてで、たとえ家の中ではまったく温もりを感じられなくても、それが彼女の世界のすべてだった。だけど今、彼女はジレンマに陥った。行くか行かないか。一見簡単のように見える二択だが、彼女にとっては中々解けない難問だ。
もし温奈が彼女に残ってほしいと口にすれば、どれだけ良かったのか。そうしたら彼女には迷う必要がなくなる。彼女たちの間にはお互いから離れられないという共犯関係があって、互いに秘密を守り合って、共に苦しみを背負う必要があるから。だが温奈は彼女を引き留めなかった。残してほしいと意味するヒントすらくれなかった。ヒントさえあれば、天秤の片方に重りをもう一つ置けて、揺らいでいる均衡を崩すことができた。しかし、温奈はただ静かに彼女のそばに寄り添っている。急かすことはなく、ただゆっくりと彼女の決断を待っている。
夏朦が一番辛かったのは、温奈の顔はまるで彼女が離れても大丈夫と、彼女だけが幸せになれたら良いと言っているようなもんだった。あの子供が例の誘拐犯に殺されていないというニュースが広まってからも、温奈は態度を改めずに、いつも通り彼女を慰めていた。
あの日温奈が一階に降りてから、彼女の混乱して悲しい気持ちはかなり落ち着いた。彼女は改めて、離れるか残るかという選択について考え始めた。彼女の頭の中では無数の声が響いている。天使と悪魔が争っている。でも彼女の心の中にはぼんやりではあるが、すでに決めた答えがある。答えの輪郭はもう見えていて、あとは最後の一押しさえあればそれが出せる。
彼女はアルバムを持ってベッドで見ていた。昔の写真を見て、温奈と共に大学で過ごした時間を思い返して、そしてこの店での平凡な日常を振り返した。
彼女はずっと温奈に出会えたことが人生の中で一番幸運なことだと思っている。あるいは彼女はそれで一生分の幸運を使い切ったから、その後にいろんな事件にあったのかもしれない。
もしかしたら自分が選択しなければならないと聞いた当時から、心には答えがある。だけど、彼女はちゃんとそれと向き合うことができなかった。それは彼女には未練がありすぎるからだ。自分だけの家族を惜しみ、過去の執着を惜しみ、母さんが残した家を守ると言う言い付けを惜しみ……だがそれらの過去への執着は、本当に温奈が彼女に捧げた全てに勝るのか?
写真の中で彼女に笑顔を見せる温奈を見ていると、彼女も思わず微笑んだ。彼女は自分が離れるべきではないし、離れたくもないということを知っている。ずっと知っている。
ドアの外からノックする音がした。彼女は声に出すことなく、温奈がドアを開いて部屋に入った時に目を閉じて寝ている振りをした。彼女はトレイが机に置かれた音を聞いていた。足音が近づく音を聞いて、温奈が優しく彼女に毛布をかけた時、彼女は思わず目を開けたが、またすぐに閉じた。
彼女は、今でも温奈に自分は本当は離れたくないって伝えたい。温奈から行かないでって言われたい。しかし、彼女にそんなことはできない。それじゃただ相手を騙して自分の代りに選択をさせているだけで、答えを出したのは彼女自身ではない。何でもかんでも温奈に頼ってはいけない。彼女はこれ以上甘えるわけにはいかない。ちゃんと自分で責任を負わないと。未来にどんなことが起きても、ほんの少しの後悔でも、自分で背負わなくちゃいけない。
あの日のことを思い返しながら、夏朦は暗闇の中で体を起こして、振り向いて温奈の部屋に繋がる壁を見た。
今日は『母さん』と『妹』の態度に悲しかったが、同時に彼女も、父さんはただ彼女の返事を早く聞きたいから店に来たということに気付いた。でもそれがかえって彼女が早く決断したいという気持ちの後押しになった。
壁の向こう側にいる人はもう寝たのかな。もしまだ寝ていないのなら、自分は大学にいた頃のように、温奈と一緒に寝てもいいのかな?
彼女はベッドから降りて、手には枕を持って、ドアを開いて隣の部屋の前まで歩いた。同じ作りのドアの前に立って、彼女は思わず、温奈が彼女を起こした時には、どんな気持ちでノックしていたのかを考えている。ノックする音は毎回違うリズムをしていた。彼女はずっとその法則がわからなかった。でも最近彼女は自分で起きることをし始めた。よく眠れていないこともあるが、これ以上温奈の負担を増やしたくないという考えもある。
コンコン。
慎重に二回軽くノックした。ドアが彼女のために開かなかったら、そのまま諦めるつもりだ。二度目のノックはしない。温奈と一緒に寝たいのは、ただ我慢できずにまた甘えたくなっただけだ。彼女は誰かがこの終わりのない夜を終わらせて、自分がちゃんと眠れるようにして欲しい。そうすれば起きたら元気が出て、決断する勇気が出るのかもしれない。
ドアは彼女の小さな祈りの中でゆっくりと開いた。彼女は温奈が少し驚いた顔で自分を見ているのを目にした。彼女も余計な説明をせずに、許可を得てからそのまま温奈の部屋に入った。温奈の部屋にもいい匂いがした。彼女の部屋と違ったのは、色んな香水が残した花の香りがない代わりに、ボディーソープとシャンプの匂い、即ち彼女たちだけの香りに満ちていることだ。。
この匂いはまるで温奈そのもので、彼女をほっとさせ、安心させることができる。彼女はこの匂いがする場所には、いつも自分の居場所があることを知っている。
二つの枕は寄り添っていて、彼女は裏側に寝ていて、温奈を外側で寝かせた。片側に壁があって、もう片側に温奈がいる。彼女は今日こそよく眠れると思った。この二つは共に一番頑丈な守りだから、彼女に寂しさと無力さを感じさせない。
温奈の横顔を見つめて、彼女は自分がこんな風に真剣に温奈を見つめているのは久しぶりだと気付いた。彼女はいつも自分の悲しみで余裕がなくて、一番身近な人間をちゃんと見る時間もなかった。それに対して夏朦は思わず、ずっと話せなかったありのままの言葉を話した。
彼女はずっと静かで、色んな言葉を話さなかった。でもちゃんと言わないと、自分の心の声を相手に伝えることができない。彼女は植物ではないし、温奈も同じだから、言わなければならない。聞かないといけない。せめて決断をする前にお互いの考えのすべてを知りたい。
温奈から彼女が離れると寂しいと聞いた時、彼女はついに胸をなでおろした。相手の気にも留まっていない、捨てられるかもしれないという恐怖と気持ちを落ち着かせた。幸せ過ぎると不安を感じると、人はいつも言っている。彼女もそれに同意している。奈奈がそばにいると幸せだ。でも幸せである同時に、いつか温奈がこんな彼女を耐えきれず、離れるのではないかって心配もしていた。
だから彼女は事あるごとに大丈夫かと聞いて、そして奈奈が離れても良いと言っていた。彼女はずっと臆病な自分のために心の準備をしていた。そうすれば、本当に温奈を失う日が来ても精神が崩壊することはない。でも温奈が彼女にくれた答えはただ一つだけのはずだ。そう思い返すと、もしかしたら今まで彼女はこれらの返事で、自分を日々を怯えながら過ごさなくていいようにしているのかもしれない。
彼女は安心して温奈の好意を受け入れられて、安心してありのままの自分を見せることもできる。
温奈がこんなにも彼女のすべての選択を応援するのを見て、彼女は思わず共犯者として温奈に、もし温奈が警察に捕まり、でも自分は逃げたら、自分はより悪い人になるのではないかって聞いた。最初は大丈夫と言われて、悪人になってもいいという返事が返ってくると思った。
結局、彼女の奈奈は彼女の代りに悪人になるぐらいのバカだった。
さっきと同じく暗闇の中にいるのに、この時彼女はまるで夜の色が柔らかくなって、もう針で彼女の心を傷つけないと感じた。彼女は、自分がもう父さんに自分の決断を伝えるための十分な勇気をもらった、と思った。
明日にしよう。明日には父さんに伝えよう。自分は奈奈のそばに残りたいと伝えよう。
彼女はここに残る、この彼女が追い求めていた家に。温奈は彼女の本当の家族ではないかもしれないが、本当の家族よりも、温奈のほうが彼女に気にかけている。家族という言葉の定義は本来そうであって、血縁だけで決めるべきではないかもしれない。
夏朦は温奈の息の音を聞きながら目を閉じた。彼女は温奈がまるで血桜の下でピクニックをしたあの日のように、自分の手をしっかり繋いでいて、絢爛で美しい夢の中へと導く光景を想像していた。
血桜の下で君の涙に口づけを 風說(フウセツ)/KadoKado 角角者 @kadokado_official
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます