42 決断

 温奈は朝七時になってからこっそりベッドから降りた。一晩中目を閉じなかったことで温奈の体は疲れ切っている。冷や水で何度か顔を洗った後、ようやく目が覚めた。一階に降りて毎日している開店準備を済ませ、自分にエスプレッソを淹れて、椅子に座って夏朦が心を込めて育った植物たちを見ていた。夏朦に植物を育てる時の注意事項を聞くのを忘れてはいけない。どの植物にも違う要求があって、ただ水をあげて太陽を浴びさせるだけじゃだめだ。


 夏朦が離れた後、これらの植物たちが温奈の世話が至らないせいで病気になったり、死んだりしてほしくない。園芸が得意じゃないし、植物たちの囁きも聞こえないけど、努力で補うことぐらいはできる。夏朦が残したノートと植物医師の助けがあれば、彼女一人でもなんとかできそうだ。


 一つ欠伸をすると、急に眠気が湧いてきた。摂取したカフェインですら睡魔には敵わない。


 少しだけ、少し寝るだけだ。徹夜した後は短い睡眠だけで元気になれると聞いたことがある。ちゃんと効いていればいいなって温奈は思った。


 意識は徐々にぼやける。温奈は抵抗することなく、睡魔に安らかな眠りに引きずり込ませた。


 夢では温奈がまた小さい深海魚に戻っていて、彼女の女神のそばで悠々と泳いでいた。自由に尻尾を振る感覚はとても心地が良かった。目には見えないけど、彼女の女神も同じように嬉しいと感じた。


 ああ、いいな。

 このまま時間が止まって、自分の目を覚まさせないでほしい。


 深海魚になった温奈も自分が夢を見ているのがわかっている。意識が明晰になるに連れて、体も軽くなる。これは多分脳だけが動いて、体の他の部位は休眠状態に入っているせいだ。このまま彼女と一緒に夢の中に留まってくれないかって、彼女の女神に聞きたい。残念ながら今の彼女は声を失い、うまく言葉を発せない。


 だけど、彼女の女神は特殊な能力を持っている。ここでは彼女の心の声すら聞こえる。


 彼女の女神は彼女に微笑んで、軽く頷いた。


 その動きが海流を動かせ、彼女の鱗と鰭、尻尾に伝わった。彼女は嬉しそうに海の中で自由に行き来している女神の後についた。海面に近付いた時は興奮しすぎたせいで、勢いのままに海面を飛び出してしまい、水玉を連れて空中で円を描いた。


 だが彼女は、海の守りから飛び出すことは、自身を危険の中に晒すことになることを忘れた。彼女が海に戻る前に、カモメに咥えられてしまった。彼女は苦しそうに息をしようとして、彼女の女神のそばに戻りたかった。だけど、距離が遠すぎたせいか、彼女の女神に彼女の声が届かなくて、そのままカモメに陸まで連れてお腹に飲み込まれた。


 温奈は驚きで目が覚めたが、夏朦が彼女の前にいるの見てほっとした。夏朦は笑顔で彼女を見ている。その見慣れた感じは、さっきの夢の中にいた楽しい女神に少し似ている。


「おはよう、昨夜はよく眠れなかったの?」

「おはよう、多分寝るの遅すぎたかも」


 自分が一晩中に眠らなかったことを言わなかった。寝るのが遅かったのもある意味、今の温奈が眠い原因でもある。


「今何時?かなり寝てたの?」

「そんなに長くないよ、二十分ぐらいだ。今日は休みだし、もっと寝ればいいのに?」


 夏朦が困惑したように頭を傾けるのを見て、温奈がようやく今日が定休日だと気付いた。やはり眠らないと脳の思考に影響が出るようだ。ただ、少し眠ったことで、温奈は元気を取り戻した。今では欠伸をしなくなった。どうやらあの方法は本当に有効のようだ。


「大丈夫、もう目が覚めたし、朝食を作るよ」

「朝食はもう作ったよ」


 温奈は俯いてテーブルを見ると、半分に切ったサンドイッチを乗せる二つの皿が置いてある。温奈は驚いて、喜んだ。記憶違いでなければ、夏朦が彼女のために朝食を作るのはこれが初めてだ。


「どうしていきなり朝食を作ろうと?」

「今まではあなたが作ってくれたから。それに焼いたトーストに中身を入れるのはそう難しくもないし、食べてみてよ」


 夏朦の期待に満ちた表情を見て、温奈はつべこべ言わずにそのまま頂くことにした。温奈はまずサンドイッチの見た目を観察した。その表面は少し焦げたように見えるのは、多分夏朦がまだ温度調整になれていないせいだ。でもそれが全然許容できる範囲内だ。断面からはハムとチーズ、生野菜が見える。温奈は両手でサンドイッチを取り、夢の中のカモメを報復するかのように、大口で齧りついた。


「どう?美味しい?」夏朦は待ちきれずに聞いてきた。


 隠れているイチゴのジャムを味わうと、温奈は驚いて夏朦のほうを見た。サンドイッチの味は普通だったけど、温奈の中の感動を損なわなかった。夏朦はただ朝食を作ってくれただけではなく、彼女がいつもサンドイッチにイチゴのジャムを入れていることを覚えている。ただの簡単な手順で、夏朦が普段からそれらの細かい点を、温奈に関する細かい点をしっかり記憶しているのがわかる。


 やばい。どうして夏朦は温奈にこんなに優しくするの。このままでは感情が溜まり続けて、そして別れた時に一気に崩れてしまうだろう。


「おいしい!」温奈は力強く頷いた。この言葉だけでは彼女の興奮を伝えきれないけど、夏朦を甘い笑顔にすることぐらいはできた。

 夏朦もサンドイッチを持って小さく一口を噛んだ。少し焦げた部分を噛んだ時は苦みのせいか眉をひそめた。

「やはり少し焦げてる」

「大丈夫だよ、最初にしては上出来だ」


 温奈は惜しまずに夏朦を肯定した。本当はいくら焦げても温奈は全部食べきるけど、大事なのは料理の味ではなく、その気持ちである。今日も雪のように白い恰好をする夏朦を見ていると、最近の夏朦は温奈が起こす必要がなくなっているのに気付いた。夏朦が無意識に自分から起きる習慣を、徐々に付けているのかもしれない。誰も起こしてくれなくなった日になれば、目覚まし時計や体内時計頼りに目覚めるようになる。


 再びさっきの短い夢を思い出すと、思わずちょっと悲しくなる。これらの行いと今日の朝食も、離れる前に合図なんじゃないの?


「奈奈」

「どうした?もう食べられないの?」

 夏朦がサンドイッチを置いたのを見て、温奈に食べてもらう合図と推測した。

「ううん、あと少しは食べられる。そうじゃないけど、後で電話するのに付き合ってくれない?」

「電話するの?」

「うん、父さんに電話をかける、私の決断を教えるために」


 温奈も手に持ったサンドイッチを置いて、ぼうっと夏朦を見ている。夏朦は落ち着いているように見える。激しい感情の起伏がなく、眼窩に涙が溜まることもなくて、その眉間は静かで平然としている。温奈は彼女の女神がもう決断を下したことがわかる。夏朦は数日前の哀愁や悩みを振り切って、後悔のない自信のある選択をした。


 この時がいずれ来ることは、温奈もわかっていた。しかし、それがこんなにも突然とは思わなかった。


 唾を飲みこんで、温奈は夏朦の願いにうなずいた。この朝食の後に、現実と向き合わないといけないのを考えると、咄嗟に複雑な気分に変わった。温奈の自慢な味覚は、これ以上残ったサンドイッチを堪能することができなくなった。


 苛立ちはまるで虫のように温奈の全身を這いまわる。温奈は速やかに自分の朝食と夏朦が食べきれない分を飲み込んで、皿を洗ってから、夏朦が携帯を取り出して番号をかけるのを待っている。夏朦は荼蘼とタンポポの前にしゃがんで、片手で携帯を耳に近付けて、片手は温奈に手招きして、もっと近づけるように示した。冷たくて気持ちいい小さな手が温奈の手を握り、その細くて繊細な五本指が大人しく自分の掌に収まるのを見て、温奈は少し指を曲がり握っているようにした。


 夏朦は真剣にタンポポを見つめている。鳴っている呼び出し音はそばにいる温奈にも聞こえる。夏朦は根気よく留守電に入るまで待った。どうやら夏おじさんが言っていたいつでも電話かけてもいいということも嘘のようだ。


「父さんは多分取り込み中でしょ。メッセージでも送るか、父さんも早く知らせたいし」


 夏おじさんが電話に出なかったことで諦めることなく、どうやら夏朦の決意はもはや石のように固いようだ。小さい手は温奈の手から離れた。温奈は頭を突き出して早く夏朦が入力した内容を見たくて、空中にぶら下がっている心を落ち着かせたかった。安心して着地するのも、そのまま深淵に落ちるのも今の浮遊感よりはましだ。


 だけど夏朦は体で携帯を隠して、画面を見せないようにした。「送ってから見せるね」

 温奈は仕方なくあの虫のような苛立ちを我慢するしかなかった。今このだけは一秒が一年のように長く感じる。時間はまるで温奈の不安に影響されているようで、一秒ごとに長くなっている。秒針は何時もより長い時間をかけて次の秒へ辿り、バトンを受け取り走り続ける。


 どっちだ?

 残るのか?それとも離れるのか?

 離れるのか?それとも残るのか?


 夏朦が送信ボタンを押してから、やっと携帯を持って振り向いた。緑に満ちた背景の中で夏朦は彼女に微笑んだ。まるで咲いたヒツジグサのように、目が覚めた瞬間に大地を呼び覚ました。


 しかし、温奈の目を引くのはその人を心酔させる笑顔ではなく、夏朦の後ろで暴力に任せて開けられたガラスの扉にあった。木の札は扉にぶつかって何度も跳ねた。カタカタな音は来訪者の悪意を訴えている。温奈の瞳孔が引き締まって、温奈は反射的に夏朦を懐に抱いて、彼女の女神に傷つかせないようにした。


 携帯は夏朦の手から離れて床に落ちて、また一つの重たいコンの音がした。

 画面は下の方に向いているが、今の温奈はそれを拾ってメッセージの内容を確認する余力はない。

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