43 衝突

 扉の前に立っていた者は昨日会ったばっかりの『妹』だ。でも彼女の顔にあるのは温奈が見慣れた傲慢と苛つきではなく、怒りで頭に血が上っている姿だ。その両目は怒りのせいで充血していて、その手には危険極まりないハンマーを持っている。それが金物屋で売っているような普通サイズのものであっても、金属製のカナヅチは十分凶器と言える。


『妹』は狂ったようにハンマーを振り回して、隣にある植木鉢を強く叩いた。その凶行で鉢は割れて、欠片が周りに飛び散っていた。今にも夏朦の白いふくらはぎを切りそうのを見て、温奈は慌てて夏朦を抱いたまま後退し、ハンマーの攻撃範囲から速やかに離れようとした。


「なにをしている!やめろ!」温奈は叫んで、大声で今も植物たちを壊し続けている『妹』を止めようとした。


「あんたはなぜ私たちの家族を壊そうとする?昨日父さんと母さんが大喧嘩したよ。きっと全部あんたのせいだ!前は喧嘩してるところなんて見たことない。家族楽しく海外に引っ越すと思ったのに、ずっと楽しみだったのに、なんであんたがまた出てくるの?なんで父さんは一緒に行かないかって聞くの!あんたはあたしの姉さんなんかじゃない!家族なんかじゃない!父さんと母さんの仲を邪魔しないでよ!」


『妹』はヒステリーに叫んでいる。植木鉢を壊しただけでは止まらず、必死で床に散乱した植物たちを踏みつけた。枝はその暴力で何本も折れて、葉っぱと土くれは綺麗な床に散らかっていて、まるで残酷にもバラバラにされた死体のようだった。


 温奈に抱かれた夏朦は息を呑んで、植物たちのほうに行きたくて、彼女の懐から抜けようとした。それはただもっと多くの命が暴徒の手で死なせたことを防ぎたいだけ。


「もうやめて!」夏朦は苦しそうに叫んで、まるでそのハンマーは植物たちにではなく、自分に落としているようだ。


「やめてほしいならついて来ないことを約束して!これ以上私たちの家族を壊さないで!酔っぱらって私たちを殴ることをしない父さんを、母さんはやっと見つけたんだ。やっとまた家ができたんだ。これ以上私たちの父さんと家を奪わないで!」

「約束するから!ついて行かないから!だからもうやめて……」


 夏朦は鼻が詰まったような嘆願の声で植物たちの命乞いをした。温奈は雫が自分の手に落ちたのを感じた。俯いて見ると、透明の涙はどんどん夏朦の眼窩から零れ落ちている。頬を伝って顎まで流れて、そして夏朦を止めている温奈の腕に落ちている。腸が千切られたような痛みが温奈の心を苛んだ。温奈は少しの間に動きを止めた『妹』のほうを見て、そして振り向いて夏朦をキッチンに押し込んで、夏朦が反応する前に一足先に『妹』に向かって突っ込んだ。


「嘘だ!そうでないのなら彼らはなんで喧嘩をする!こっち来ないで!」


 甲高い叫び声はまるで温奈の鼓膜を突き破る寸前だった。温奈が伸ばした手はもうすぐハンマーの柄に届きそうで、あと数ミリでハンマーを奪えるのに、『妹』は急に手を挙げて、温奈に向かってハンマーを叩きつけた。温奈はその動きに反応できず、瞬時に前へ飛び込む動作を変えられなかったけど、手を挙げて自分の頭を守って、頭がかち割られる危険を避けた。


「奈奈!」


 温奈は後ろから響く夏朦の声が聞こえたが、右腕から伝わる激痛で『来るな』という言葉すら話せなかった。ハンマーで思いっきり人体を叩かれたらこんなにも痛いとは、ただの中学生の少女が使っても十分な殺傷力を持っているものだ。右腕は痛くて痺れて、力なくぶら下がっている。今の彼女が動かせるのは左腕だけだ。でも温奈の行動は上手く『妹』のターゲットを変えて、その怒りを全部温奈のほうにぶつけさせた。


『妹』が血気盛んでいると言うべきか、それとももはや理性がないと言うべきか、家を失う恐怖が『妹』を復讐の悪魔へと変えた。自分の幸せの邪魔をしようとする障害物をすべては排除しようと、ハンマーを振り回し続けた。


 タイミングを見てハンマーを奪うため、例え利き手じゃなくても、優先的に左腕を守らないと、そうするだけが狂っている『妹』を止められる。必死に避わし続けたが、温奈の右腕はまたハンマーに当たってしまった。痛みで温奈は眩暈を感じ、後退って机と椅子にぶつかった。椅子は衝撃に耐えずに倒れて、そして支えを失った温奈もバランスを崩して床に倒れていく。


「奈奈を傷付くな!」


 ひらひらの白いスカートが現れた瞬間、温奈はまるで本当に女神が降臨したように見えた。強く美しく、彼女を救うために人間界に降臨した女神である。


 夏朦が温奈の前に飛び出して、『妹』の手に持っている武器に怯むことはなかった。長い茶髪は温奈の視線を遮った。温奈は夏朦を引っ張ろうとしたが、左腕を伸ばす前に『妹』の凄惨な断末魔と、それに伴うハンマーが床に落ちた重い音が聞こえた。


 いくら夏朦の体は細くて小柄とはいえ、まだ中学生の『妹』は彼女たちよりよほど小さい。温奈は夏朦の後ろで何が起きたのかわからない。温奈は左腕で床について起き上がり、夏朦を後ろに引っ張ろうとしたときに、床に零れ落ちた赤色に気付いた。一滴、また一滴、無数の血の雫は落ちて、まるで血の雨のようにその純白を赤に染めた。温奈は目を見開いて、心臓がその赤を見た瞬間に止まりそうだった。


 温奈は二人の間に入って無理矢理二人を離れようとしたが、できなかった。さっきの傷のせいではなく、物理的に「できなかった」からだ。


『妹』の胸に一本のナイフが刺さって、夏朦はその柄を握っている。溢れた鮮血はナイフを握ってた両手を赤に染めた。細い体は震えているが、ナイフから手を離せなかった。


 ついに温奈が恐れたことが起きてしまった。しかし、刺されたのが夏朦ではないのに気付いて、一瞬で安心した。彼女の女神に血の一滴も流れていないが良かったとすら思った。


 驚き、恐怖、歓喜、安心が混ざり合って興奮の感情となって、心の鍵盤はリストの狂詩曲を奏でている。同時に自分がもっと早く『妹』を止められないこと、あるいは温奈が夏朦の代りに『妹』を殺さなかったことに後悔した。もし彼女たちの中で誰かが人殺しにならなければならないなら、その人は夏朦ではなく自分でありたかった。深海魚である彼女にしかその罪が耐えられないのだ。


 温奈は少し力を入れて、ナイフを握っている夏朦の指を一本ずつ引き離した。『妹』は後ろの方に倒れ、ナイフが床にぶつかった衝撃で抜けないために温奈は慌てて手で支えた。心臓に直撃した致命傷はどう見てももう助からない。息を確かめたら『妹』が死体になったことを確認した。温奈は慎重にその胸にナイフ刺し戻して、刃を完全に胸に埋もれるようにして、血液が大量に流れ出すことを防いだ。


 温奈は振り向いて彼女を守った夏朦を見た。夏朦はまだ我に返っていなくて、その場にぼうっと立って温奈を見ていた。まるで自分をもうすぐ頭上まで来そうな津波から連れ出すための救援ロープを探しているようだ。


 人間の鮮血は純白のカンバスの上ではおぞましいとしか形容できない。でも温奈は前と同じようにその赤色の魅惑に引き付けられた。彼女はとっくに女神の足元に平伏している囚人だ。完全なる聖潔のためにも、血の鎖に巻き付かれた罪のためにも、温奈は喜んで自分の心を差し出そうとする。


 温奈は返り血を浴びた夏朦を引っ張り、左腕で相手を支えて、夏朦の耳元で優しく「助けてくれてありがとう」と呟いた。これは死んだ子猫と怪我した子犬が話せなかった言葉だ。温奈は人間の言語で、その言葉を直接彼女の女神に伝えた。


『妹』は彼女を重傷にするとして、殺すまではしないだろうとわかっていた。だが今回死んだのはまた夏家の人間で、夏朦を助けるために、前と同じように精神的に壊れるのを防ぐためにも、温奈は夏朦の行動を理由付けないといけない。温奈は夏朦の肩にかかっている三度も奪った命の負担が最後の藁となって、その脆い脊椎を折れて、砕け散らせることが怖いのだ。


 温奈は片手で夏朦を支えながら振り向いて、二人の向きを変えて、夏朦の視線の高さを温奈の肩を越えないようにした。床に倒れた死体を見て、腕の中にある者の震えは止まることがない。涙は温奈の服に徐々に広がっていく大きな水染みを残した。温奈は夏朦が落ち着いてから死体を処理したいが、今は朝で、店の扉も開いたままだ。いくらここが田舎でも、誰も通らないことに保証はない。


 温奈は夏朦を懐から離させた。これでもう三度目だ。夏朦の反応はもはや見慣れたもんだ。夏朦の目は虚ろで、まるで糸の切れた人形のように自由に手足を動けない。そしてもうしばらくするとパニックに陥り、罪悪感に苛まれる。夏朦が今度も温奈の命を救ったことに喜びを感じる保証はない。もしその明るくて喜ぶ段階がないと、悪魔はすぐまた夏朦のところに訪れる。


 まずは夏朦を椅子に座らせた。温奈は速やかにシャッタ―を閉めて、そして裏口から出て、ハマーを裏口まで移動して死体を運びやすくした。トランクの血痕がまだ完全に綺麗にする前に、暫く目くらましに買ってきた防水シートがちょうど役に立った。温奈はまだ死体の遺棄場所を決めていないが、せめて今は死体を縛って隠さないといけない。


 右腕の助けがないから、すべての行動が難しくなった。幸い右腕は完全にダメにはなってない。力は入らないがサポートぐらいはできる。死体を片付けてから夏朦を車に乗せて、片手でハンドルを回して死体の遺棄場所を探しに出発した。

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