45 花言葉
温奈がまだ自分の行動を意識する前に、すでに両手を広げて夏朦に抱きついた。温奈の声は少し詰まっているが、自分がなんで悲しんでいるのかわらかない。
「もう教えてもいいのか?あなたが夏おじさんに送ったメッセージの内容を」
「父さんには残ると伝えた。奈奈の傍に残るって」
「本当?」
温奈の大好きな声が、温奈が一番聞きたい言葉を言った。一瞬自分がその言葉が聞きたすぎたせいで、幻聴でも聞こえたのかすら疑った。しかし、クチナシの香りはこんなにもリアルで、髪の香りと温度と混ざり合って、彼女の五感を刺激している。夏朦の肩甲骨の形もしっかり温奈の懐に刻んでいるから、これが夢なわけがない。
温奈は喜びのあまりに、相手を自分のほうに振り向かせた。喜びの涙はコントロールできずに落ちていた。夏朦は温奈の涙を見て、指を伸ばしてそれを掬ったが、悲しい微笑みを見せた。
「でも今はもうどうでもいい」彼女の女神は彼女にそう言った。
夏朦が何を言っているのかわからなくて、温奈は再び固まった。夏朦は自分の意思で残ってくれたと思った。今朝のあのヒツジグサが目覚めたような微笑みもそういう意味ではなかったのか?どうして突然こんなこと言うのか?それもあんな哀しい顔で。
「奈奈、私はもう耐えられないの。人を殺したんだよ。それに一人だけじゃなくて、あの子供とあの若者も、今度は父さんの大事な家族を殺した。このまま何ともないようにこの世界で生きていられない」
「違う。あなたはただ私を助けようとしただけだ。あれは事故だった」!温奈は思わず叫んだ。まるでその大声で、起きながら透明な悲しさにもうじき眠りに誘われるような女神を起こそうとしていた。
「それは違うよ。あなたが傷つくのを見て、私は本気で妹を殺したいと思った。前と違って……今回は悪意を持って人を殺そうとした。醜くて、卑劣な殺意を持って、あなたを傷つけた妹にも苦しみを味わせたかった。あのハンマーがあなたの体に振りかざされるのを見て、私の心がどれだけ痛いのか思い知らせたかった。それに彼女は私の妹なのに、私の家族なのに、血の繋がりがないとはいえ、姉妹なのに、そんなにも私のことが憎いのか……」
「私のせいで彼女は怒りを覚えた。そして私も彼女のせいで人を恨むことを覚えた。私にはどうしようもないんだ……私には……本当にどうしようもなくて、愛とは何かすらもわからないのに、人を恨むことを覚えた。どうして人間はこんな醜い感情を持たなければならないの?」
涙は川のように流れて、止めても止まらない。温奈は慌ててその透明な涙を拭い去りたい。その涙がこれ以上夏朦を傷つくのも、彼女の女神を連れ去るのも止めたい。
だが彼女の手は血塗れだ。すでに乾いたとはいえ、それらは全部夏朦が言った『悪意』そのものだから、その純粋な肌を汚すべきでない。
彼女は彼女の女神を愛している。とてもとても愛している。夏朦はこの世で温奈が一番愛している人と言っても過言ではない。しかし、温奈の愛は夏朦に人を愛することを教えられなかった。温奈はただの小さな深海魚で、与えられるのは付き添いしかない。
夏朦は白いスカートのポケットから何かを取り出した。温奈がそれが何かをはっきり認識した時、ほとんど一瞬で夏朦の手からそれを奪った。それは元々夏朦の部屋にあったカッターだ。あの日彼女が念のために一階に持って行ってから返していなくて、ずっとキッチンに置いたままだ。一体何時?夏朦は何時それを手に入れたの?
どの道、何時それを取ったのかは重要なことではない。肝心なのはそれが今この場に現れたことだ。
「奈奈……」
「ダメ!」
例え蜜のように甘い声を聞いても、温奈は応じることができない。応じるわけがない。彼女の女神がどんなに頼んでも、了承するはずもない。手に持ったカッターを強く握り、温奈は目を閉じて、目の前にいる夏朦を見ないようにした。今の夏朦が温奈に何をしてもらいたいのか、予測できないはずがない。
「奈奈、お願い。本当にもう耐えられないの」
その声の持ち主が彼女にそう言った。冷たい蜜は下から逆流してきて、彼女の肌にこびりつき、腕を沿ってゆっくりと顔へ流れついた。彼女が最も馴染んだ掌は彼女がしてきたように彼女の顔を持ち上げている。
「奈奈、お願い……私にやらせてくれないのなら、奈奈がやってくれる?奈奈は大切な人だから、この世界で一番大切な人だから」
涙で目がぼやけて、その透き通った瞳すらはっきり見えなくても、温奈はその言葉を聞いて目を開いた。
「奈奈……」彼女の女神は何度も何度も彼女の名を呼び、悲しく懇願して、絶望的に彼女の名を呼んでいる。
「私を殺してくれない?」
涙が流れ落ちて、積み重ねた感情は瞬時に砂の城のように崩壊した。彼女は子供のように大泣きして、無様に袖で適当に涙を拭いだ。それはただしっかり夏朦の姿を見るために。
夏朦も泣いている。透明な涙を流していて、まるで自分自身の罪を洗い流すために、自分をも透明にしようとしている。それでも夏朦は温奈に微笑んでいる。それが柔らかくて静かで、温奈の一番好きな笑顔だ。
「奈奈はちゃんと生きてね。奈奈のような優しい人は、幸せになるべきだ」
夏朦は爪立てて温奈の頭を軽くポンポンした。その間隔はこんなにも馴染み深い。温奈は至近距離で夏朦の両目を見て、その瞳は依然として雨に洗われた青空のように綺麗だが、そこには何の感情も宿っていない。
彼女は、酷い人なのか?
彼女は、残酷な人なのか?
離れたい人を無理に止めて、重力に縛られるべきでない女神にしがみ付いて人の世に残し、彼女の女神を涙を流せ続けた。
こんな彼女はひどく残酷ではないか?
彼女の一生の最大の願いは彼女の女神に幸せになって欲しいことだ。だが今彼女の女神には、終わりのない苦しみだけが残っている。
「奈奈……」
最後の呼び声は、満天の花びらと共に散った。鮮血は白い首から噴き出して、彼女の女神も、雪色の大地も赤く染めた。
彼女の女神は彼女に微笑んだ。最後の力を振り絞って手を伸ばして彼女の顔を触ろうとしたが、力尽きてぶら下がった。彼女は痛々しいほどに細い体を抱いて、膝をついてその安らかな顔を見ていた。
夏朦は幸せそうに見えた。目を閉じて、まるで夢を見ているようだ。彼女のいない良い夢を。透明な涙は目尻から流れ落ちて、夏朦の体にある最後の色を連れ去った。温奈は俯いて夏朦の顔に近付き、その涙にそっと口づけをした。
口づけ、それはかつての彼女がこっそり妄想することしかできない、したことのない親しい行動だ。だが今になっても、彼女はやはりそのずっと渇望しているバラ色の唇に口づけることはできない。それは恋人にしか許されない部位だ。例え彼女の女神はすでに何も感じられなくなっても、許しを得ていない彼女は、勝手にその線を踏み越えてはいけないのだ。
彼女の口づけは、敬虔を、哀憫を、彼女のすべての感情と優しさを込めた口づけである。その唇が触れた肌はまるで柔らかい花びらのようで、淡い香りが優しくその周囲を包んでいる。彼女はまるで自分が抱かれているように感じた。
舌先から彼女の体内に入った涙は、彼女をも透明にした。彼女はこれほど夏朦に近付いたことはない。互いの心臓は密着して、同じ周波数を共有する。夏朦が感じたすべての悲しみと、罪と、そして最後の解放を味わう。
懐に抱いた体は徐々に冷たくなってから、彼女は夏朦を花の絨毯の上に置いた。彼女の最愛の長くて淡い茶髪を梳かして、自分もその傍で横になった。空を見上げると、彼女は雪色の中で青空が見えない。ただ純粋な白だけが見えている。
「ベイビー、ごめん……」温奈は自分の中でこっそり呼んでいた夏朦のあだ名を呟き、やるせない顔で深く眠っていた夏朦のほうを見た。温奈もわかっている。このあだ名はあまりにも俗っぽい、夏朦には似合わない。でも温奈は普通の恋人同士どんなに羨ましかったのか、そんな風にお互いを呼び合えるなんて。
そして今は、温奈だけが一人っきりで取り残された。彼女の最愛の人は、もう永遠に彼女の言葉は聞こえない。
「これぐらいのわがままは許してくれるのかな?」
温奈はいつも夏朦の意のままにした。どんな願いでも温奈は答えていた。だが相手が先に一番残酷なことをさせた――彼女の手で自分を死なせた。だから彼女の少しのわがままも、許されるはずだ。
確かに優しさは自分を傷つけることになる。彼女は人生で一番大切な宝物を失った。月の欠けた地球は寂しさで災難を引き起こして、やがて自身を蝕んで、破滅へと歩みだす。幸せ?それは彼女の恋焦がれる気配が消えた瞬間に無意味の言葉と化した。
温奈は夏朦を自分の温かい懐に抱いて、すでに震えが止まった手を挙げて、自分の首を切った。
視界が徐々にぼやけていく。彼女は最後にクチナシの香りを嗅いで、花びらに彼女たちに布団を掛けさせて、彼女の女神を追って夢へと旅立った。
目を閉じる前に、温奈は朧気に血桜の花言葉を考えていた。血桜の物語はとっくに時間の流れの中で方向を見失い、消えてなくなった。でも今は、彼女たちの手で新しい物語を、新しい花言葉を綴った。
彼女たちにとって、血桜の花言葉とは、『彼女たち』だ。
世界中のどんな言葉でも定義できない「彼女たち」だ。
最後に、温奈は夢を見ていた。
温奈は自分がまた小さな深海魚に戻った夢を見た。彼女の女神の傍で自由に泳いでいた。でも、今回はペリカンがいなかった。彼女も興奮で我を忘れることはない。彼女は女神と共に夢の中に止まり、彼女たちの海の中で永遠に居続ける。
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