血桜の下で君の涙に口づけを

風說(フウセツ)/KadoKado 角角者

01 早朝

 トントン、トントントン。


 温奈ウンナイは人差し指の関節でドアを叩いた。前の二回と後の三回には少し間隔があった。


 前の二回は、おはよう。

 後の三回は、起きて、と言う意味だ。


 温奈はドアに耳を傾け中の音を十秒間、もしかしたらそれ以上聞いたが、ドアの後ろは音もなく静かだった。彼女は夏朦がまだ夢の中にいるに違いないと思った。どんな夢がシャーモンを夢中にさせ、ドアをノックする音も聞こえなくなるのが気になった。


 夏朦の夢の中に自分がいてほしい。でもいなくてもいい、良い夢であることを願った。


 温奈も夏朦にはもっと寝て欲しいと思ったが、そろそろ開店時間だから、一緒にゆっくり朝食を食べたかった。


 ドンドンドン、ドン!ドン!

 前の三回は、起きろ!

 後の二回は……


 温奈は自分勝手に夏朦につけたニックネームを思っていたが、少し恥ずかしかったので手を戻した。たとえ相手が聞こえなくても、心の中で呼ぶのにはすっかり慣れていたから、いつかつい口にしてしまうかもしれないと考えた。そのニックネームはあまりにも親しく聞こえて、口に出せないから。こっそり隅に隠れて、たまに一人で楽しんでいた。


「起きたよ……」眠気に包まれた語尾で、起きたばかりのかすれた声はスィートに響いた。


 部屋の中から聞こえる声で温奈は我に返った。クスッと笑いながら、夏朦が目を閉じたまま起き上がった姿、少し乱れた髪とか、顔にうっすらと枕の跡が残っているのではと想像した。


「もう横になっちゃダメよ」温奈が笑って注意した。

「うん……」


 しばらく経つと、部屋から羽のように軽やかな足音が聞こえてきたから、温奈は階段を降りて、歩きながら手に持った黒いシュシュで髪を縛ってポニーテールにした。


 暗闇の中で手探りしながら店内に入り、壁に手を伸ばしてスイッチを押すと、シャッターがゆっくり上がり、金色の光が下から流れてきた。シャッターが完全に上がると、日の光が汚れ一つないガラス扉に射しこみ、店内が柔らかい自然光に包まれた。温奈は手を伸ばしてストレッチをしたまま、笑顔で朝を迎えた。


 温奈はいままで早起きの習慣があり、夏朦を起こすのも好きだった。ドアを叩く音でささやかな気持ちを伝えていた。夏朦がそれを知らなくてもいい、心に秘めるだけで彼女は十分幸せだったのだ。




 店舗用音響設備のスイッチをオンにして、夏朦が一番好きなクラシックの曲……リストの『ラ・カンパネラ』を流した。躍動感のある曲調はぼんやりした人影の迎えに最適であり、明るい曲は美しい夢から魂を呼び起こすのだ。


 言うよりも早く、温奈がコーヒーメーカーに水を入れていると、夏朦が階段を降りてきた。手には部屋に置いてあるタンポポを持ち、時折朝に店に置いて太陽の光を浴びさせるのだ。今、鉢の中にはまだ黄色い花と毛玉のような形の可愛いつぼみがなく、緑の葉が生い茂っているだけだった。


 夏朦は今日も肩にかかった清楚で上品な白いワンピースを着て、白磁のような細い腕を露出させ、鎖骨もはっきり見えた。骨のくぼんだ箇所に見える影に温奈はいつも思わず見とれてしまった。


「おはよ」眠気を覚ました声とは夏朦本人と同様に、変化に富んで透き通っていた。

「おはよ、今日は何を食べる?」温奈は冷蔵庫を開けて、上半身を曲げて食材を探しながら聞いた。保存容器の後ろにある日本酒の瓶に思わず目に入った。


 それは彼女が今日のために準備したものであり、スーパームーンが見られる満月の夜に夏朦と一緒に月見をしたかった。もちろん、つまみのメニューも温奈は考えた。


「うーん……」

「チーズ蛋餅タンピンにする?それともハムサンド?」

 夏朦が特に決まっていないことは知っていたから、自分が直接提案して、夏朦に二つから一つを選んでもらったほうが楽だった。

「ハムサンド」

「オッケー」


 温奈はトーストをトースターに入れながら、具の材料を準備していた。朝食屋兼カフェを経営するメリットは、気持ちに合わせて毎日別々の朝食メニューを選べることだ。


 二人の専用マグカップをそれぞれコーヒーメーカーに置いて、二倍濃縮モードを選択した後、ボタンを押した。自分も夏朦もエスプレッソが好きだから、一般客向けの濃度設定を調整する必要がある。後で開店するときは設定を戻すことを忘れてはいけない。


 コーヒーとトーストを一緒に待ちながら、既に花の手入れを始めた夏朦を見た。窓の傍に置いたタンポポは、外の温かさを浴びていた。店内には空いたスペースがほとんどなく、物を置けるスペースは全て植物が占拠していたから、初めて訪れた客の中には花屋と誤解する人もいた。


 温奈は植物について疎くて、バラ、サクラ、ツツジなどが一般的な花だと認識している程度で、花が咲かない緑の葉だけが生える植物は全て一緒に見えた。鉢の中にある花が咲いていない植物も、夏朦が教えてくれたおかげで、自分になじみ深いタンポポだということがわかった。


 元々、開店当初はこんなに植物が多くなかったが、路上で夏朦が引っ越しや世話されずに捨てられた鉢植えを見かけると、つい店に持ち帰るのだ。


「お花たちは泣いてるけど、すすり泣きでも大泣きでも、人には聞こえないの」

 夏朦と一緒に鉢植えを持って帰る道中、彼女はいつもそう言いながら、泣きそうにしおれた葉を見ていた。


 温奈は何も聞こえない。どんなに努力して聞こうとしても、植物から聞こえるのはいつも静寂だ。

 それは一種の特別な力で、優しくて、繊細な心を持つ夏朦しか持っていない力だと温奈は信じている。でも、聞こえなくたっていい。少なくとも自分は夏朦と一緒に大小さまざまの鉢植えを店に運ぶことができるのだから。


 限られたスペースにたくさん植物を置けるようにするため、温奈は自分の手で夏朦のリクエストに合わせた植物棚を作り、内装と同じ色のローズホワイトで塗装して玄関に飾った。彼女は夏朦が完成品を見た時の輝く笑顔と、可愛いえくぼが忘れられなかった。そのとき、作る大変さも筋肉痛も全て吹っ飛んだ。


 今でも、華奢な体が名前の知らない花や葉に囲まれている姿を見ると、温奈はここが誰にも邪魔されることなく、毎日が静かでゆったりと暮らすことができる自分達だけのネバーランドではないかと思わず想像してしまう。


 トースターが「チン」と鳴ると、温奈は先にコーヒーをテーブルにセットしてから、二人分のサンドイッチを作り始めた。キツネ色に焼けてサクサクしたトーストに順番通り、レタス、トマト、ハムを載せ、最後にイチゴジャムを薄く塗ったら、ふた切れにカットして皿にのせて、テーブルに置いた。


 半分こすることで、関係を長く続ける。


 温奈はこの言葉が好きで、二人の感情が、日に日に「半分こすること」で蓄積され、より堅くなることを願った。


 顔を上げて店内の時計を確認すると、まだ時間に余裕があり、食べるスピードの遅い夏朦もゆっくり朝食をとることができる。


「できたよ。食べよ!」温奈が呼んだ。


 夏朦の長くて綺麗なストレートヘアが振り向く度に揺れて、光が射すと、ライトブラウンの柔らかい髪が金色に輝き、白い肌も透き通っていた。


 ああ……


 温奈は内心感嘆せずにはいられなかった。あの純粋な美しさは、女神のように荘厳であり、より親密な関係にならなくても、ずっと彼女のそばにいて、自分の全てをささげたいと願った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る