21 優しさ

 両手を死体の上腕に置いて、温奈はしゃがんで力を使って死体を前へと押し出そうとした。彼女は反作用の力が彼女ごと崖の下に連れて行かれることを少し心配した。実は彼女にとって死は怖くないし、彼女もいつでも人の世を離れる心の準備をしている。別に死にたいとか生に未練がないとかではなく、ただ単に流されて生きてきて、運命の女神の意のままにしていた。だが今の彼女には生きなければならない理由がある。自身の安全確保も夏朦を守る条件の一つだから。


 死体は彼女の努力でようやく仰向けの姿勢から横向きになった。あと九十度回せば、死体を永遠に消すことができる。その手足につなげた石は一緒に動かなかったから、仕方なく彼女は一旦死体を横向きのままにして、一つずつ石を運んだ。額から落ちた汗は彼女の視線を遮ったので、手の甲で適当に拭き取った。そして、息を切らしながら、歯を食いしばって再び死体を押した。


 死体の顔が見えなかったから、彼女は多少気が楽になった。いくら二体目の死体とはいえ、死者の顔を見ると、多少なりとも罪悪感が湧く。彼女は胸の奥で道徳を説く声を押し込んで、その人間の倫理観に縛られている自分を暗い小部屋に閉じ込めて鍵を閉めた、そして死体と一緒に鍵を崖に落とした。


 死体は急速に落下した。彼女は慎重に崖から頭を突き出して、その過程を見ていた。死体は岩礁にぶつかった瞬間にすぐ波に飲まれた。バラバラになったかどうかは良く見えなかったが、少なくとも岩の隙間で死体の一部や衣服を残してないことは確認できた。海は貪欲に彼女の投げ出した餌を貪ってから、もっと欲しいと騒いでいた。


 人間が太刀打ちできない大自然の力に見惚れるように見つめて、温奈は後ろから引っ張られるのを感じて、後ろに倒れた。柔らかくないが、ほんのりと甘い香りがする懐の中に倒れ込んだ。二人の肩甲骨がぶつかり合って、彼女は思わず自分の体が後ろにいる人の小さい骨格を傷付けるのではないかと心配した。


 夏朦は後ろから彼女を抱きしめた。その力の強さはまるで彼女を自分の体に取り込みたいようなものだった。夏朦に触れられた部位はかなり熱かった。それは太陽のせいではなく、二人の心音が重ね合って生まれた熱度だった。


「奈奈、ごめんなさい。いつもこんなことさせて」すごく近くから細くて柔らかい声がして、耳でもその唇から吐いた息をはっきりと感じられた。

「謝る必要はないよ。あなたのせいじゃない。全部あなたのせいじゃないの」

「どうして奈奈はいつも私にそんなに優しいの……」


 きっと夏朦には答えを知っている。それでもいつも彼女に絵を描いてもらうのと同じく、質問を口にした。彼女は常に『それはどうして』を考えていた。今になって彼女は多分もうわかっている。相手が離れるかもしれないという不安が悪さをしているのか、彼女はいつも慎重に再確認をしている。それで温奈が同じ答えをくれるのかを試している。そして積み重ねた答えで心の不安を消し去る。


「わかってるはずよ」


 温奈はわざと明言しなかった。彼女は自分が我慢できずに夏朦の頼りたくなる心を利用してしまって、二人が共犯という関係で互いに一番近づいている隙に付け込むのが怖かった。


 その言葉を夏朦がどう捉えてもいい。夏朦がどんな答えが欲しかったら、その答えを与えてやる。彼女の女神は少し狡猾だ。でも大丈夫、それでも好きだ。夏朦の依存は彼女に自分が特別な人だと感じさせる。


「奈奈、私がどんなお願いをしても、応じてくれるの?」

「するよ。なんでも応じるよ」

「保証できる?」

「保証するよ。あなたのためなら何でもするよ」


 病んだように愛する心が危険で嘘偽りのない約束をした。これは実質違った形の告白であった。彼女はこの言葉で夏朦の不安を拭い去りたかった。夏朦はただずっと彼女の与える優しさを堪能すればいいと思った。


 温奈は夏朦の抱擁が名残惜しいが、それでも自分から立ち上がって、まだ地面に座っていた夏朦に手を差し伸べた。彼女を見上げた瞳は眩しさで少し細め、そのあとすぐ笑顔になって、目は曲がって三日月のような形になった。夏朦は疑わずに腕を伸ばして、小さい手を彼女の手のひらに乗せた。彼女はその小さくて可愛い手を握り、夏朦を引っ張り上げて、手を繋いだまま夏朦を助手席に連れて行った。


 助手席のドアを開けた途端、まだ姿が見えないのにすでに子犬の鳴き声が聞こえた。眠っていた子犬は席で大人しく彼女たちの帰還を待っていた。彼女たちの姿を確認すると、すぐに立ち上がろうとした。しかし、怪我をした後ろ脚を引っ張って、残った三本の足で立つしかなかった。それでも小さい尻尾は嬉しそうに振っていた。


「お待たせ、車で待たせていてごめんね」夏朦は子犬を抱いて車に入り、夏朦にシートベルトを付けさせてもらった。


 凶器のナイフと若者が落とした酒瓶を思い出して、温奈はトランクのほうに回り込んでそれらを取り出した。その後、ナイフを思いっきり海に投げ込んだ。ナイフは放物線に沿って落ちていった。すぐに酒瓶もナイフの後を追って海に入った。彼女は海に飲まれた破裂音を聞こうとしなかった。頭を突き出して割れた酒瓶が反射した光をも見ようとしなかった。


 すべての証拠を隠滅した後、彼女は眩しい太陽の下で台車を押して車のトランクに仕舞った。そして、ハマーを崖から離れた。帰り道の途中、彼女はすでに海沿いの風景を楽しむ余裕がないぐらいに疲れ切っていた。最後の意志力で睡魔に連れて行かれないように自分の意識を支えていた。


 彼女は突如として、今朝は夏おばさんの墓参りをしに行ったばっかりで、午後にはこんな目に遭ったということについて考え始めた。この巡り会わせも運命の女神の悪質な冗談なのか?夏朦は癌細胞が夏おばさんの体を蝕むのを阻止できなくて、ただ死神が家族を連れていくのを見ることしかできなかった。しかし、今は一つの命で一つの命と交換することに成功した。自分の力で罪なき命を救うことができて、過去の無念を晴らせた。


 彼女たちの体は血塗れで埃でいっぱいなので、先に車で家まで戻ってから子犬を医者に連れて行くことにした。帰る途中、夏朦はずっと眠っていた。子犬だけが弱った声でまるで温奈と話しているように鳴いていた。彼女にはその鳴き声の意味がわからなかったが、それでも付き合ってくれたのが嬉しかった。それに子犬は人の言葉がわかるようだった。夏朦を起こさないように声を小さくするように言ったら、鳴き声がそのまま小さくなった。大人しいその姿に彼女は思わず微笑んだ。


 車を直接店の裏口の前に止めた。どうせ元の位置も駐車スペースではない。この付近では彼女たちの店兼住宅の小さい家一軒しかなくて、少し賑やかな商店街までは十数分ぐらい歩く必要があるから、適当に止めても誰の邪魔にもならない。扉の鍵を開けてから、眠そうな夏朦を連れて店に入った。子犬を受け取ってから、夏朦には風呂に入って着替えをしてもらった。


 夏朦の白いスカートについた血はとっくに乾いて、深い色の汚れは塊りとなって硬くなった。それはまるで散ったバラのようで、咲ける時間が限られていて、永遠にその美しい模様を維持することができない。温奈は夏朦が浴室に入るのを見送って、夏朦は子犬を抱いていた彼女を一瞥して、躊躇うことなく前回の眉用カミソリや爪切りばさみなどを含めて、浴室内の刃物の付いた美容用品をすべて彼女に渡した。彼女に微笑んでから、浴室の扉を閉めた。


 彼女は鍵をかける音が聞こえなかった。それは夏朦が彼女を安心させるためにあえて鍵をかけなかったとわかっている。なにせ前科のある人は何をしても疑われるから。


 温奈は貯蔵室でペットボトル水を入れていたダンボールを見つけて、何着の古着を詰め込んでから子犬を入れた。突然なじみのない環境に来たのに、子犬は全く怯えていなくて、横になって休んだらすぐに深い眠りに入った。小さいお腹は規律よく動いていた。


 子犬の母親はこの子の事を心配しているのだろうか?それともその母親はすでにいないのか?もしかしたら子犬はずっと独りぼっちで外で食べものを探して、一食あるかないかの生活を送っている中、不幸にも酔っ払った人間に捕まえられて傷つけられたのかも。


 子犬を見つめながら、浴室から伝わる水の音を聞いて、温奈の視線は子犬からダンボールに移した。それは彼女たちがよく買うペットボトル水のメーカーのやつで、実は最初は夏朦が気に入ったメーカーなのだ。飲み心地が優しいって夏朦はいつも言っている。夏朦と知り合うまで、彼女はそのメーカーの水に特別に感じたことはなかった。しかし、運動会で一位を取って、夏朦がこのメーカーの水を渡してから、彼女は初めて水はこんなに甘く飲められることに気付いた。それに優しい味も感じられるようになった。


 水は夏朦の涙と同じように透き通っていて、その透明の涙にも優しい味をしているのかな。温奈は壁を背に階段口に座って、それを考えていた。


 彼女は突然味わいたくなった。もし夏朦のためにその涙をすべて飲んだら、夏朦の人間としての色彩をその華奢な体にしっかり封じ込められるのかもしれない、彼女はそう思った。

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