09 重力
温奈は片手で傘を持ち、もう片方の手で夏朦を雨から守りながら、裏口に向かって歩き出した。傘を傾けたせいで、温奈の左肩に大量の雨が当たった。彼女の体は寒さで感覚が麻痺し、まるで既に雨に対する耐性があるかのようだった。先ほどあれだけ雨に濡れていたから、もう少しの間、雨に濡れてもなんともなかった。既にほとんど乾いている夏朦の体をまた冷やさないことが最重要だった。
二人は雨に追われるように店内に逃げ込んだ。出かける前に電気を消すのを忘れていた。店内に入ってすぐに目に入るのは白いテーブルの上の血と、床に残した靴で踏んだ汚れだった。温奈は反射的に夏朦の両目を塞いで、そのまま階段に誘導した。夏朦は素直に温奈の言う通りにして、適温の湯船につかるのを待ち、何重にも巻いていたコートやブランケット、バスタオルを脱がした。
白いタイル張りの浴室では、湯霧で鏡が曇り、夏朦が少し非現実的な存在に見えた。温奈はずっと夏朦を偶然に人間界に迷い込んだ女神のように思っている。信じられないほど繊細で柔らかな肌はいつも小さな青い血管を見せ、髪からつま先まで全てが丁寧に彫刻された芸術品のようだ。温奈は色んな女神の石膏像を思い浮かべた。それらの命が吹き込まれていない硬い石膏よりも、夏朦のほうがより女神の定義に合致している。
女神であるがゆえに、人間の心は夏朦にとって重すぎて、全ての感情が重荷となっていった。透明な涙は彼女の体についた色を洗い流し、香りを薄めた。もしかすると彼女の涙が尽きたとき、夏朦は天界に戻り、昔みたいに自由奔放な神であり続けるだろう。
だが今の夏朦はいつものような純白ではない。白いドレスについたシミも血も、白いふくらはぎについた泥も、共に彼女を汚している。温奈は夏朦がいつも清潔できれいな姿でいてほしいと思っていたはずなのに、なぜかわからないけど、純白のドレスについた血に見惚れてしまった。それはまるで真っ赤なバラがお構いなしに夏朦の体に咲いているようだった。
許されざる罪を犯した女神が地に落ちて自分と同じ人間になり、妖艶に咲く血の花は夏朦を縛る重力のようなもので、いつも儚いその姿が地面に繋がれているようにしてくれた。
温奈はタオルを湿らせて夏朦を浴槽の縁に座らせ、彼女のふくらはぎを持ち上げて優しく拭くと、灰色と茶色の汚れが徐々にタオルの上に移っていった。夏朦の手足を丁寧に拭いた後、温奈はのぼせるかもしれないから、あまり長く浸からないよう念を押し、浴室のドアを閉めて夏朦のプライベートエリアを確保した。夏朦が入浴するだけで汚れが洗い流されるはずだが、温奈は罪を分かち合うように、自分の手でその汚れを落としたたかったから。
できることなら、女神の清めを手伝いたいとさえ思っていた。世俗的な感情とは無縁で、ただ一人の信者として、女神を血塗られた枷から解き放ち、聖なる姿へと戻すために。
ドアに背を向けたまま、静かにため息をついた。水しぶきを聞いてから温奈は浴室の前から離れ、雨で濡れたバスタオルと自分が着ていた服も洗濯機に放り込み、下着姿で部屋に戻り、ゆったりしたTシャツと短パンを着た。洗濯機はキッチンのすぐ横にあり、その間に窓がないので、見られる心配もない。
スリッパに履き替えて階下に降りた温奈は、テーブルについた乾いた血を洗剤と雑巾で掃除し始めた。鮮血が乾くと濃い茶色になり、新鮮な光沢を失う。それは、血が生命を維持するためのものであり、肉体から切り離すことなく大切にしなければいけないという人間への警告なのかもしれない。
彼女は洗剤を大量に噴霧し、何度も力を込めてこすっているうちに、濃い茶色がようやく薄くなってきた。しかし、錯覚なのか、子供の血痕がまだはっきりと見えるような気がした。
夏朦は、大丈夫かな?
最初は空洞のような目をしていることに驚いたが、現在は落ち着きを取り戻している。しかし、夏朦の心に入り込んで、心の傷がただれるのか、穴の開いた場所が後遺症をもたらすのか、最終的に心が折れてしまわないか確認することができなかった。
温奈は賭けをした。自分がそばにいると夏朦が罪悪感による譴責を乗り越えられることに賭けた。埋めた子供が行方不明の子供の一人と見なすことにも賭けた。リスクはどれだけあったのだろうか?賭けが成功する確率はどのくらいあったのだろうか?そんなことをちゃんと考える自信と勇気はなかった。本能に従って行動した結果が、自分の手で死体を埋め、ここで最後の証拠を消去していることだ。
外ではまだ暴風雨だ。おそらく明日まで降り続くだろう。
その最後の痕跡をざっと拭き取ったとき、温奈は突然に無力感を覚えた。力を抜くと疲労感が襲ってきて体が力を失い、指一本動かすことすら息が上がった。
土の中に横たわっている子供と黒い子猫、最後に肌が見えなくなるまで土を覆せている様子が突然頭に浮かび、罪悪感が彼女のこめかみを打ち、心に突き刺さった。
温奈は自分が生きている限り、毎晩同じ罪悪感を抱えながら生きていかなければいけないことをすぐに悟った。この傷口は癒えることのないだろう。自分が死ぬ時でさえ、あの二つの小さな命が幼いまま、早くもこの世に別れを告げられ、あの暗い洞窟の中で、永遠に眠り続けることを余儀なくされたことを思い出すのだろう。
一体誰のせいなのかという問いに対して、絶対的な正解や不正解はないように思えた。しかし、たとえ事故だったとしても、命を奪ったことに変わりはない。死体を埋めただけで自分がこんなにも苦しいなら、夏朦の身に繋がれている鉛はどれほど重いなんだろうか?
温奈は罪悪感が形となり、錆びた鎖となってその小さな体を縛り付けることを想像した。錆は体中に降り注ぎ、逃れられない殻となり、呼吸できる毛穴を全て塞ぎ、まるで土に埋もれた死体のようになるのだろう。鎖は繊細な皮膚をすりむき、血を流させながら肉に食い込み、醜い痕跡を残していくのだろう。
温奈は急に力が湧いてきて立ち上がり、大股に二階へ駆け上がった。浴室のドアはまだ閉まっていて、隙間から明かりが見えた。何も考えずに、温奈はドアに駆け寄り、強くノックした。
ドンドンドン。
「夏朦?そこにいるの? 大丈夫?」
中からの返事がなかった。温奈は不安になってドアノブを回すと、鍵がかかっていることに気づいた。全身の細胞に一瞬にして不安に包まれた。
ドンドンドン、ドンドンドン!
大丈夫なの、返事して!
「夏朦、返事をして!」
温奈は必死でドアを叩き、手が真っ赤になって止めなかった。お願いだから、離れないで。お願いだから、置いて行かないで。鍵を開ける工具を探そうとしたその時、『カチッ』とドアが開き、目の前にはバスタオルに包まれ、髪から水を滴らせた人影が立っていた。
温奈は考えもせずに直ちにあの人を強く抱きしめた。自分に泣くなと言い聞かせたのに、この時に涙が溢れ出した。もうこれ以上我慢できない。もし、どれだけ努力しても、最愛の人が自分から離れてしまうのなら、自分はどうすればいいのだろう。夏朦は温奈の腕の中で静かにじっとしていた。どうしたのか聞くこともなく、腕を上げて抱きしめ返そうともしなかった。
温奈はバスタオル越しに夏朦の体温を感じ、体が密着していることでお互いの鼓動が聞こえてくるようだった。だが温奈はようやく異変に気づき、夏朦から少し離れた。頭からつま先まで見渡すと、夏朦が眉毛トリマーを手にしていることに気づいた。
温奈は首を絞められて息が詰まるような感覚に襲われ、刃についたわずかな赤みを丸い目で見つめた。夏朦の右手から何も持っていない左手に視線を移すと、左手の手首には細くて赤い線が一本あった。それはうっかり赤ペンで書いたものみたいだった。しかし、温奈はそれが赤ペンで書いた線ではなく血だとわかった。皮膚から離れるべきではない、夏朦の血だった。
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