10 哀願

 温奈はすぐさまに眉毛トリマーを奪った。自分が怪我するかどうかも気にせずに、ただあのくそったれの刃物があの手から早く離れればいいと思った。夏朦はつい縮こまっていた。肩がすくめた動きはさらに鎖骨を突出させていたが、温奈はその美しい線と水を盛れそうな凹みを堪能する時間はなかった。


 温奈は今までにこれほどの怒りを感じたことはない。怒りの炎が彼女を燃やしていた。その飛び火が目の前で怯えた顔をしてた夏朦にかかりそうな時に、彼女は左手で思いっきりドアに叩いた。その怒りに耐えられないドアはそのまま凹んでしまって、木の破片が拳に突き刺さってしまって、その痛みがまるで冷や水のように彼女の怒りの炎を鎮火した。心が焼かれた温奈は突然床に膝をついた。その動きにびっくりした夏朦もしゃがんだ。


「朦、私から離れないでくれる?ずっと一緒にいるから。二十四時間三百六十五日、昼夜問わずに傍に寄り添い、辛い夜を共に過ごすから。だからこんなことをしないでくれる?あなたがいなくなったら私はどうすれば……」温奈はおどおどしながら夏朦に哀願した。


 温奈は今まで自分をここまで哀れに思ったことはない。彼女は忘れていたのだ、夏朦の命はずっと夏朦自身の手の中にあることを。過去にも夏朦から絶望したような気配を感じたことがあったが、どれも淡煙のように一瞬だけの存在であって、すぐに霧散した。温奈はその言葉を口にする勇気すら持っていない。それを口に出してしまえば、彼女の女神は気付かないうちに違う方法で人の世から逃げ出すのを恐れていた。


 温奈は哀れである。彼女はわずかな幸福に捕らわれた愚か者だ。深く愛した者の愛を求めず、ただ相手がこの世にいればいい。たとえ夏朦から温奈を離れて、彼女が二度と見つからないところに行くって言われても、哀しくはなるが、夏朦がちゃんと生きてさえすれば、温奈は心が切り傷を負うように了承するだろう。


「ごめんなさい。もう二度としない。泣かないで、奈奈。ごめんなさい……ごめんなさい……」夏朦は身を乗り出して温奈を抱きしめ、彼女の耳元で呟いた。


 温奈は夏朦の手が自分の背中を軽く叩いたのを感じる。それは夏朦が落ち込んでいる時に彼女がしてきたことだ。一回、また一回。その間の間隔はなんと繊細で優しい。長すぎても短すぎてもだめ、リズムのように規則的で、心で旋律を歌っていた。それは願えば手のひらを通じて相手の体の中に伝わるような明るい旋律なのだ。


 今でも夏朦は心の中で旋律を歌っているのかは温奈には分からないが、その間隔とリズムは、自分の心の中の歌にこんなにもそっくりなのだ。口に出さなくても、そのリズムはすでに夏朦の体にしみこんでいて、記憶の中に刻まれた習慣となった。


 焦燥、恐怖、怒りなどすべてが夏朦の叩いてるうちに消えた。温奈はとっくに最初のごめんなさいを聞いた時……いや、夏朦がドアを開いてくれた時から夏朦を許していた。許すというのも変な話で、そもそも温奈には怒る権利もないのだから。彼女はただの卑屈な追従者だ。女神が本当にすべてのことに嫌気を差していたら、彼女がどんなに哀願しても、力の全てを使って叫んでも女神の耳には入らないだろう。


 だが夏朦は言った、「もう二度としない」と。その言葉を信じてもいいのか?この言葉を二人の約束としてみなしてもいいのか?温奈はそれを聞けずにいた、聞きたくない答えや沈黙を得ることを恐れていたから。


「ごめんなさい、びっくりさせたよね」温奈はドアを叩く暴力的な行いに後悔していた。頭を上げると見えてくるその凹みが、先ほどの彼女がいかに暴走していたのかを思い出させていた。

 夏朦は首を横に振った。「手が痛いでしょう。手当てするから」


 温奈の手はドアを叩いて木の破片が刺さっていて、もう片方の手は眉毛トリマーを奪ったときに手のひらを切っていた。なぜ止めに入った自分の方が重傷になっているのか分からないが、夏朦さえ無事ならそれでいいのだ。彼女は自分の手の傷を気にしていない。ただ一刻も早く夏朦の手首に残った血の跡を塞ぎたい。その赤色はあまりにも眩しくて、直視すらできないくらいだ。


「先に着替えてて。せっかく温まった身体が冷えるよ」


 夏朦と一緒に部屋のドアまで来て、温奈は外の壁に寄りかかって夏朦が着替えるのを待っていた。温奈を安心させたいのか、ドアを完全には閉めずに半分だけにしている。今日一日心臓に悪いことが経験しすぎたせいで、温奈は自分が神経衰弱になりそうな気がしていた。一晩で四つや五つの歳老けてもおかしくない。


 夏朦はすぐに部屋から出てきた。身にまとっているのは一着の白いネグリジェ、装飾もなく、素朴な白が一番彼女に似合っている。模様やレースなんて余計なものだ、視覚上の邪魔にしかならない。


「さっきのスカートに血が付いてしまって、多分もう洗っても落とせないから、私が処分する」温奈がそう言うのを聞き、夏朦は着替えたスカートを温奈に渡した。

「先に下に降りて、救急箱は下にいるから、あとで手当てする」

 夏朦は微かに眉をひそめ、温奈の両手を指さした。「あなたのほうこそ手当てが必要でしょ」

「わかった、じゃあなたの手当てが済んだら、私の手当てをしてくれる?」

 その言葉を聞いて、夏朦はやっと満足して頷いて下の階に降りた。


 布に完全にしみ込んだ血の跡を見て、温奈は想像した。事件が発生した際、夏朦はおそらく怪我した子供を助けようとしたが、子供はすでに息をしてないことに気付き絶望した。植物の微かな声でも聞こえる夏朦になら、もしかして人やほかの動物の息絶える声も聞こえるのか?温奈はそれが一体どのような声なのか気になっている。一生聞くことができないだろうが、確かなのは、それはきっと心地の良い声ではないことだ。


 温奈は自室のドアを開き、ハンガーを取ってそれにスカートを掛けた。指で柔らかい生地に軽く触り、乾いた血の花を撫でて、触覚を通して当時夏朦の感情の波を感じようとした。


 温奈は急に気が変わってしまった。死体を包んでたバスタオルは捨て、うっかり血が付いた物や車に付いてた泥も片付くが、この証拠になりそうなスカートは処分したくない。そう、これは事件の証拠であって、同時に彼女と夏朦が共犯になった証でもある。


 共犯、温奈は心の中でその二文字を繰り返した。禁忌に満ちた言葉のはずなのに、彼女を狂わせそうなほどに甘美である。


 少しおかしくなった温奈は部屋のドアを閉めて、階段を下りて店にやって来た。夏朦がモップで地面の汚れを消そうとしてるのを見た。だが家事はいつも温奈がやっていたので、掃除に関しては何も知らない夏朦がずっとやっても綺麗にできない。


「まだ手当てしてないのに動き回るなんて」温奈は軽く首を横に振った。彼女は微笑みながらモップを受け取り、夏朦を椅子に連れて座らせた。


 温奈は救急箱からアルコールパッドを取り出して夏朦に怪我の消毒をした。彼女は痛くするのを恐れてなるべく軽く拭いていたが、アルコールが傷口に当たると多少にしみた。夏朦が眉をひそめるのを見て彼女も思わず眉をひそめた。心は痛むが、夏朦にはこの痛みと、交わされた約束のような言葉を覚えてほしい。


 薄く薬を付けて、それから絆創膏をその赤い跡に貼った後、温奈は楽になった。だが絆創膏がまだある限り、その恐怖を思い出してしまう。傷跡が残らないでほしい。傷跡が残れば彼女も苦しむ。


 医者と患者の役割が交代して、今度は夏朦が温奈の傷口を消毒している。切られた傷口は手のひらを横切った。幸い傷は深くはないが、包帯でしっかり固定なければならない。ガーゼがぐるぐると温奈の手のひらを包んだ。温奈は視線を自分の手に向けるではなく、彼女の手当てに集中してる夏朦に向けていた。。


 垂れていたまつげは羽扇のように、瞬く度に軽く震える。その曲がった曲線は美しく、特に先端の角度はまるで神様が絵筆で描いた完璧な線で出来ている。夢中になっている瞳には夏朦の姿しか映ってない。彼女は毎日夏朦に手当てをしてもらいたい。こういう時のためなら、毎日怪我をしてもかまわない。


 もう片方の手に刺さった木の破片は夏朦にピンセットで一本ずつ取り出された。それは大変な作業で、かなりの時間がかかった。最後の一本で肉眼でほとんど視認できない木の破片が取り出されてから、夏朦も思わず小さいあくびをした。


「もう寝よう。早く寝ないと明日目の下にクマができてしまうよ」


 温奈は夏朦を部屋まで送り、ドアの前におやすみを告げた。幸い明日は定休日、一日中疲れ切った彼女たちはゆっくり寝て休むことができる。ゆっくり夏朦の部屋のドアを閉めたら、彼女は再び店に戻り、最後の掃除を終わらせた。もうすでに十二時を過ぎているが、すべての痕跡は今夜中に片付けた。


 椅子に座って休んでいたら、温奈の視線は自然と緑の植物たちに止まった。あの植物たちはすべてを目撃した。夏朦を責めたりしないといいが、植物たちが以前、植物たちを救った夏朦はただもう一つの小さな命を助けたいことを分かってくれてほしい。


 数日前から元気のない荼蘼は今日も元気がないままだ。でも土日の休日まで花市場は営業しないから、もう暫く待ってもらうしかない。


 温奈は夏朦が荼蘼は可愛くて小さな白い花を咲くって言ったのを覚えている。その時には今とは違う顔になる。彼女も花咲くその日を期待している。もちろんタンポポが可愛くて白い毛玉を生えるのも期待している。


 外の雨声を聴いて、彼女は疲れた身体で二階の浴室に入った。浴槽に残っていた微かに温い水を抜いて、辛くも水の最後の一滴も排水口の中に消えるのを見てから、速やかにシャワーをして、夜中の三時でやっと布団に入って眠りについた。

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