36 ジレンマ

 温奈は食べ物を粗末にしたことがなかったが、その話を聞いてから、いくら皿の中のデザートが美味しそうに見えても、温奈の食欲を誘えなかった。あの日レストランで夏おじさんと再び話したことはない。温奈は夏おじさん一家が離れてから夏朦を連れてレストランを出た。


 温奈は道中、人混みに二人をバラバラにされないように、夏朦の手を離すことなく、強く握っていた。温奈は都会の喧騒を顧みずに、一番速い速度で車を飛ばして家に戻った。今の夏朦に必要なのは一番慣れ親しんだ場所で静かに考えることだ。心を落ち着かせてこそ、心の本音が聞ける。


 素敵なはずのデートが泡と化し、まるで夜空に咲く花火のように、輝くのは短い一瞬でしかない。温奈は何時もよりその思い出を大切にした。これから先は、温奈と夏朦の思い出はどんどん少なくなる可能性があるからだ。


 温奈が風呂を済ませると、道中がまるで魂を抜かれたように生気のない夏朦はすでに部屋に入っていた。温奈は部屋に戻って休むのではなく、振り向いて一階に降りた。店に入ったら、キッチンの明かりだけをつけて、ある座席に座って普段自分がいる小さな王国を見つめている。


 彼女たちの店は暖かくて居心地が良い。しかし、夏朦にとってはまだまだ狭すぎるかもしれない。もし夏朦が遠くでもっと広い場所に行けたら、心の悲しみを格納する許容空間も広がるのかな?あるいは風が夏朦の悲しみを遠くに連れて、夏朦がいつも抱えている負担を減らしてくれるのか?


 温奈は眉をひそめて、夏おじさんの言葉について考えている。もし『家族』を海外に連れていくから、お墓参りを早めたというのが嘘だとして、実は海外に遊びに行くのではなく、引越しの準備をしていたなら、もしかしたら、夏おじさんは夏朦を捨てることを考えたことがあるかもしれない。選択の機会すら与えずに、そのまま『家族』を連れて海外で新しい生活を始めるのさ。


 過去を捨て、未来に進むって、なんて前向きに聞こえるのか。まるで無限の希望を抱いているようだ。だが夏おじさんは考えたことがあるのか、彼が捨てようとしたのは彼の肉親で、世界で唯一同じ血が流れている娘ということを?いくら新しいものを好んで、古いものを嫌っても、あるいはやり直したくても、そこまで非道になるべきではない。


 その恐ろしい可能性を考えると、温奈は無意識に拳を握っていた。もし事実が本当にそうであったら、温奈は夏朦のために拳の一発でも見舞わせて、腹いせをしなかったことに後悔した。夏朦のこの数年間に受けた悔しさに及ばなくても、少なくとも少し気を楽にすることができる。


 だがどんな理由で夏おじさんの気が変わったのか、決定権を夏朦に委ねるなんて。お墓参りの時に前妻と夏朦に申し訳なく思ったから?それともレストランで一人でいた夏朦を見て後ろめたく感じたから?それとも夏朦は彼らと一緒に行くことがないと思い、せめて言葉だけにして、良心の呵責から逃れようとしたのか?


 温奈はその答えがわからない。だがどっちにしてもまともな答えではない。温奈は夏おじさんとその家族が本当に夏朦を幸せにできるのかを疑っている。悲しませないだけでも拍手ものだ。


 夏朦の決定を尊重すると決めたのに、それがまったくできないことに、深くため息をした。温奈は苦笑いして立ち上がり、荼蘼の前に行った。荼蘼の鉢には未だ緑葉しかない。温奈はネットで荼蘼について調べたことがある。荼蘼は六月になってから花を咲かせるから、春の最後に咲く植物である。


 六月、その時に夏朦はまだ温奈のそばにいるのか?もうこの店にいなくて、期待している白い花が咲く姿も見れないのか?


「荼蘼、あなたは運命の女神が贈ってくれた冗談なの?」温奈は呟いた。


 荼蘼には悲しい花言葉があって、恋の終わりを意味している。人生の中で一番大事にしている愛が失われることを予言しているから、あの時の店主があんな冗談をした。荼蘼は、祝福されない花だ。もしかしたら荼蘼自身もそれがわかっていて、だから自らの死を図ったのかもしれない。あの時、そのまま放っていて、荼蘼を衰弱死させたら、呪われた運命から逃れるのかな?


 温奈はすぐに自分の中のおかしい考えを捨てた。荼蘼が死んでいたら、夏朦はどれだけ悲しんだのか。温奈の思いが一生は伝えられなくてもいい、これ以上に夏朦の哀しみを増やしてはいけない。温奈は自分で花見をして、写真を撮って遠くの海外にいる夏朦に送ることができるかもしれない。科学技術が発展した今なら、会えなくても連絡する方法ぐらいはある。


 心の中で自分を慰めてから、温奈は立ち上がってゆっくりと上の階に上がり、部屋に入る前に固く閉じている隣の部屋の扉を見た。


 扉の隙間から光が見えるので、夏朦がまだ寝ていないのがわかる。温奈はノックをしたかった。六回ノックして、入ってもいいのかと聞きたかった。もしかしたら夏朦は温奈を受け入れて一緒に辛い夜を過ごさせるのかもしれない。だがもし扉を開いて、その机に置かれたアルバムが、ちょうど家族写真のページにめくられていたら……


 かなり躊躇ってから、温奈は自分の部屋の扉を開いた。閉じる時は軽く閉じて、夏朦の思考を邪魔しないように音を出さないようにした。今は大事な時だ。誰も夏朦のために決断することはできない。彼女自身がこの問題に向き合うべきだ。


 温奈はベッドに入って、呼吸音を控えて静かに。町で夏朦の手を繋いで歩いたことを、鏡に映っていた彼女たちのことを、一緒に美食の探検の驚きを楽しんだことを、そして夏朦が可愛く手を振った動きのことを思い返した。温奈はなるべく前半の完璧と言えるデートを思い返していた。今夜のことはまるで半分の良い夢のようだ。良い夢を激変させる悪夢の根源さえ触れなければ、夢の中でその続きを綴れそうだ。


 もしあの人が現れなかったら、もしかしたら夏朦はフルーツミルフィーユを一口食べてくれるかもしれない。そして温奈の作ったフルーツサンドイッチのほうが好きだと言う。もしかしたら彼女たちがレストランを離れた後、レイトショーの映画を見に行くのかもしれない。見るからには人を泣かせるような家族映画を選んではいけない。コメディ映画を選ばないといけない。観客の大きい笑い声の中で、温奈は隣から小さな笑い声が響くのを聞こえるかもしれない。


 彼女たちが映画館を出てから、まだ家に戻りたくないのかもしれないから、ハマーに乗って夜に輝いてる血桜を見に行くかもしれない。芝生に横になって星空を見上げて、流れていく流れ星を待って、静かに願いをすることができる。彼女の女神がこの世の悪意や罪悪感に負けることなく、ちゃんと元気に生きていけることを。


 彼女の女神はどんな願いをするのだろう。

 世界平和?すべての弱い命たちが等しく優しくしてもらえること?きっとそれらに似たような願いだ。夏朦ならきっと他人のために願うことを知っている。だから温奈の願いは夏朦のためにするのだ。


 そのような美しい場面を妄想するほど、温奈はますます眠れなくなった。温奈は天井をじっと見つめて、かなりの時間を経ってから、微かな扉の開閉音と足音が聞えた。夏朦は今壁の向こう側にいる。一つの壁を隔て、隣り合わせて寝ている。温奈は慣れで手を壁に触れた。温奈が夏朦を思っている時は、ついこうしてしまう。


 今夜、夏朦も多分温奈と同じように眠れないだろう。


 彼女の女神のために子守歌を歌いたい。自分の声で、自分の心音で、自分の息吹で夏朦を夢の世界に連れて行きたい。そこで温奈は夏朦のために色んな植物を植えて、色んな小動物が楽しく遊べる世界を作る。花が咲いても咲かなくても、昆虫であっても、鳥でも小動物でも、みんな居場所がある。そこでは傷付けることも恐怖もなく、ただ温かい太陽とそよ風があり、偶に小雨が降って大地を潤わす。


 雨が降ることはあるとはいえ、彼女たちは心配する必要がない。温奈は忘れずに小さい東屋を建ていて、彼女たちが雨宿りできるようにするだろう。一緒に雨の水滴で形成したカーテンが周りを包むのと、植物たちが雨水を楽しむ姿を堪能する。


 涼しい小雨に攻撃性はなく、再生であって、新生でもある。それは透き通った青空を迎える使者だ。太陽も暑苦しいほどに暑くない。雨の後は、空に虹色の橋を作る。虹を見たすべての命が幸せになれる。


 そこに人間は彼女たち二人しかいない。ただ、もし夏朦が望むなら、温奈は夏朦を女神に戻してもいい。そしたら温奈は女神が飼う深海魚となる。雨が残した水溜まりが広がるのを待つ。池から湖になって、そして湖から川になる。最後は川から海となる。温奈は女神が彼女のために作った、一番優しい海の中で生きる。

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