16 墓参り

 警察の聞き込みを無事乗り越えて、温奈の気持ちはかなり楽になった。死体が発見される可能性がまだあるのはわかっていて、それに暴風雨の中で山に向かったハマーが誰にも目撃されていない保証もない。でも、少なくとも今のどころ警察にとって彼女たちは事件とは無関係と思われている。当面の危機を一応乗り切った。


 土曜が近付くにつれ、夏朦の口数も減ってきた。数日前の元気な姿はまるで一時の夢のようで、夏朦の身にもう現れない。


 同じく家族を失った彼女にはその辛さがわかる。例え時間が流れることで自分がその痛みから離れ始めたと思えても、そんなのはすべて錯覚で、幻覚と言っても過言じゃない。この世界に取り残された時点で、心臓の一部が、まるで血肉と一緒に家族と共に死んだのだ。壊死した肉は再生する可能性がなく、心臓から剥がれ落ち、穴を残しただけ。その傷口はまるで血液凝固の仕組みを忘れ、かさぶたを作ることも忘れて、ただ緩やかに血が流れていく。


 これが彼女と夏朦の生活だ。すでに不完全になった心臓で生きていることだ。


 温奈はすでに事前にファンページで臨時休業のお知らせを投稿した。当日の朝もわざわざシャッターの外側にお知らせのチラシを貼ってから、店内に戻って夏朦が二階から降りるのを待っていた。命日の当日、夏朦は何も食べようとしない。これはすでに六年間続いた習慣で、温奈も夏朦に無理強いするつもりがない。弔いの気持ちを表すため、彼女も夏朦と共に一日断食して、二人分のコーヒーとおまけの健康に良い枸杞茶くこちゃだけを用意した。


 夏朦がまだ降りていないから、彼女は植物棚のそばまで行って、植木鉢の前にしゃがんで徐々に回復していた茶蘼を見つめていた。植物の専門家の言う通り、あげる水の量を減らして、鉢の底に水が溜まらないよう気を付けたら、茶蘼の調子は良くなっている。まだ元気な状態とは程遠いが、今できることは辛抱強く待つだけだ。


 彼女は突然自分がまだ荼蘼の情報について調べていないことを思い出した。携帯を取り出してGoogleのページを開いて調べようと思ったら、振り向いたらいつの間に夏朦が隣で一緒にしゃがんでいた。足音すらしなかったので、彼女は割とびっくりしていた。


「お待たせ、行きましょう」夏朦は彼女にそう言った。その声は儚くて、まるでその言葉を言っただけで力を全て使い切ったような感じだった。


 手を伸ばして夏朦の浅い色の長い髪を手櫛で梳いた。夏朦は大人しく頭を触らせたが、表情にあまり変化がなかった。温奈は微笑みながら立ち上がり、夏朦の手を繋いで裏口から出た。


 大丈夫だ。彼女が一番欠けていないものは笑顔だ。彼女が夏朦の代わりに笑うんだ。彼女の笑顔を見て、夏朦も少し喜びを感じられるといいなと思っている。


 天気予報によると、今日は小雨を降るはずだ。しかし、天気予報なんては参考ぐらいに考えるほうが丁度いいのだ。雨どころか、空は暑苦しいぐらい晴れている。最近の天気は本当おかしい。心地良い春の日のはずなのに、こうも激しく変わるとは。


 彼女はハマーの助手席の扉を開けて席に夏朦を乗せてから、回り込んで運転席に戻った。バックミラーを拭いている時、そろそろ髪を染めに行かないといけないことに気付いた。黒い髪の毛が茶髪の中で特に目立っている。彼女の髪は天然の茶髪ではなく、単に染髪剤で染めていたものだけということを暴露された。


 実は彼女は黒髪が嫌いというわけではない。でも、もっと夏朦に近付くため、色々自分で変えられる細かい部分を探し、自分と夏朦にもっと多くの共通点を持てるようにした。ただスカートをはくことを受け入れず、また白い服も自分に似合わないから、最終的に髪に工夫をした。


 最初は夏朦の写真を持って美容師に同じ色にするようリクエストしたが、試しに模倣した色は彼女をがっかりさせた。夏朦の清らかで自然な髪色を侮辱した気さえした。


 太陽の下では霞んでライトゴールドに見えるライトブラウンで、さらさらな髪を背中に羽織って、そよ風に吹かれるとまるで揺らぐススキのように見える。その柔らかい夢幻を複製しようとした試み自体が間違いかもしれない。


 彼女は複製することを諦め、色んな茶色を試したが、最終的にサンダルウッドブラウンを選んだ。それは夏朦の髪色より少し深く、でも明るい色に分類される茶色である。あの時の彼女たちはまだ学生で、夏朦がどんどん髪色を変える彼女を見ても特に何も言わなかった。サンダルウッドブラウンに決めた理由は単に夏朦の「似合ってるよ」という一言であって、彼女は一生髪をこの色にすることに決めた。


 夏朦がこのことを覚えているのかな。


 温奈は赤信号を待つ間に隣の人をこっそり見た。夏朦は目を閉じてうたた寝をしていた。でも瞼の動きからして完全に眠ってはいないのがわかる。彼女が着ている純白の半袖ワンピースは普段のものに比べてより正式で、それは夏朦を精巧な人形に見せていた。生気を感じないほど静かで、彼女は夏朦に触れて起こして、瞼の下の瞳は依然澄んでいることを確認したい衝動すらあった。


 ハマーを墓地付近の駐車場に止め、温奈はとっくに夏おじさんの車を見かけた。中には誰もいなくて、多分先に入ってお墓の掃除でもしているだろう。温奈は二人分のウォーターボトルを肩にかけて、夏朦の肩のミニバックをついでに受け取り、自分のパックバッグに入れた。これで夏朦は母親に供える花束を抱えるのに専念できる。


 まだ午前だというのに気温は三十二度まで達している。これは暑さが苦手な夏朦にとっては相当辛いだろう。温奈は日傘を開いて夏朦のために日差しを遮断した。そして車に常に必要な時に備えて日焼け止めを置いてあることを思い出して、急いで車の鍵を取り出してドアを開け、再び夏朦を助手席に乗せた。


 夏朦は暫く花束を運転席に置いて、言われた通りに腕の日焼け止めを広げた。温奈も掌に日焼け止めを出して、夏朦の白いうなじに付け、真っ白の液体がその柔肌に染み込んだ。彼女はしっかりと塗り広げて、夏朦に属さない白を残さないようにした。夏朦は彼女がやりやすくなるために少し俯いた。頸骨の関節がはっきりしていて、一つ一つの関節の触感が癖になる。


 彼女の指がうなじから離れて、過保護している保護者のように、顔にもしっかり日焼け止めを塗った。今回はさらに軽い力で塗り広げ、二本の指で軽く夏朦の頬の輪郭を描くようになぞっていた。少々痩せた細長い顔、繊細な柳眉、真っすぐな鼻、肌の一寸ごとに無尽蔵の憐愛心と敬虔心を持って触れていた。彼女は心の中の気持ちが溢れないように慎重になって、この悲しき日に、哀悼の意は彼女の利己的な愛に邪魔されてはいけない。


 夏朦が温奈の手が止まるのを見て、日焼け止めを受け取り今度は自分が塗ってあげようとした。温奈は急いで首を振ってそれを断った。夏おじさんが待っていることを言い訳にして、そのまま日焼け止めを仕舞った。彼女の感情はすでに先ほどの触れ合いのせいで暴走しそうになっていて、ここでやめないといけないのだ。じゃないと彼女はこのまま夏朦を連れてこの地から離れ、夏朦が夏おじさんと「お義母さん」「妹」と会うことを阻止するだろう。


 傘を差して夏朦と一緒に一歩一歩と墓地へ向かい、まだ着いていないが、道中すでに丘に並んだ墓標の列が見えた。夏朦は道中ずっと自分の懐に抱える花束を見つめていて、ほとんど道を見ていなかった。夏朦は普段ほとんど花を買わなくて、一年にこの日に一度だけ買う。夏朦が実はあんまり花を持っていきたくないのを温奈は知っている。だってここに置いてある花は最終的にはただ枯れるだけ。それでも買わないといけない。


 夏おばさんは生前、夏おじさんと夏朦に言ったことがある。もし自分が亡くなったら、命日は菊の花ではなく、必ず白いカーネーションを供えること。菊の花はただ死を連想させるだけで、縁起が悪い。例え自分が亡くなっても家族がその息苦しい雰囲気に包まれてほしくない。


 条件はこれだけでなく、夏おばさんは毎年の命日に家族で見に来てほしい。誰も欠席してはいけない。だから夏おじさんは毎年この時期に夏朦を訪ねてくる。


 温奈は夏おばさんに会ったことがないが、心底からこの人を嫌っている。普通なら夏朦を生んでくれたことを夏おばさんに感謝しないといけない。だってこんなにも素敵な命をこの世界に連れてきてくれたもの。それでも彼女にはそれができなかった。


 この前、とある命日に、夏朦は彼女に実の母親に関する話を色々話してくれた。それだけでは詳しく夏おばさんがどんな母親なのかを説明できないかもしれないが、その生活の欠片を集めればその人の姿を組み立てられる。その性格や思考についても、人に対する態度もだ。それで彼女は気付いた、夏おばさんは夏朦の実の母親であるにもかかわらず、夏朦に与えるべき愛情を与えていなかった。


 白いカーネーションは母親の子供に対する純粋で絶えることのない愛を意味する。彼女は夏おばさんが夏朦に対して白いカーネーションを供えることを要求する資格があると思っていない。彼女はその無垢な白を壊したくて、それを不潔な雑な色に染めたい。夏朦に代わって、既にこの世にいないのに、利己的に夏朦をコントロールしている「母の愛情」を拒絶したい。

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