27 衰弱
温奈は習慣的に隣部屋の扉までやってきた。ノックしようとする手は伸ばしたまま、暫く空中で止まっていた。最後は扉を叩くことをやめて手を下し、意気消沈のまま下の階へ降りた。数日前も躊躇うのを繰り返していてノックするのを諦めた。それは感情の込めてない音が夏朦を驚かしてしまうのを恐れたからだ。結局夏朦はいつも開店前に一階に降りるが、温奈の用意した朝食はまったく食べず、ただ一杯のコーヒーを飲むだけだった。そして、タンポポを見てまた涙した。
温奈が一階に降りて最初にやることがタンポポの様子を見ることだ。葉っぱの群れの中からは黄色さが全く見当たらなく、代わりに幾つのもふもふの小さい玉が現れた。それは温奈の記憶の中で一番見慣れた姿だ。純白で柔らかいその姿に彼女は思わず手を伸ばして触りたくなるが、温奈は上手くその衝動を克服した。温奈は自分が触れば、その一本一本の細柔らかい綿毛は落ちていくことを知っているから。
それがタンポポの繁殖方法だ。でも、その風と共に去る習性を思うと温奈は思わず悲しくなった。
風が吹けば、温奈はタンポポが去るのを止めることができない。
温奈は数歩下がり、自分の動きがその完璧な毛玉たちに影響しないようにして、シャッターのスイッチを入れた。光もいつものように入ってきた。ここ数日に天気はやっと安定してきたが、心地の良い気温でも夏朦を笑顔にできないのが残念だ。温奈はお手上げ状態に近かった。なるべく早く夏朦が沼から抜け出せるよう、色んな方法を考えて試したが、未だに成功していない。
何時ものようにネットニュースを閲覧して彼女たちが今日を無事に過ごせると確認すると、温奈は野良犬のために飼い主を探すサイトを開いて、いい人が子犬引き取ってくれることを願った。情報をそのサイトに載せただけでなく、店のファンページにも載せた、ただ未だに良い知らせがないのだ。ブラウザを開いてお知らせをチェックする度、毎回失望した。
夏朦が食べないとわかっても、温奈は心を込めてサンドイッチを作った。冷蔵庫にも常にヨーグルト、フルーツ、プリン、アイスクリームなどの冷たくて甘い食べ物を用意していた。このような物は三食ほどの栄養がないのはわかっているが、一口で十分なカロリー摂取できるような物で、それが夏朦の食欲を誘えれば、そんなに栄養がなくても関係はない。
二人分の朝食を作った温奈もまだ食べない。椅子に座り階段を見つめていて、もし夏朦が下りればすぐにわかる。一分一秒と進む時間を数えて、案の定温奈の読み通りの時間ぐらいに白い姿がゆっくり降りてきた。両足がちゃんと地についているのに、その歩みはまるで浮いているように無音で無気力だ。
その急激に痩せた体を見るだけで温奈は眉をひそめたくなるが、それでも温奈は自分の一番朗らかな笑顔を見せ、夏朦におはようって言った。眉をひそめてはいけない。これ以上夏朦に悲しい表情にしてはいけない。今の温奈には十分強い心を持っていて、今度は温奈が自分の女神を救う。
夏朦の声は空気中に一秒間だけ漂ってから霧散した。それがまるで儚い煙のように、温奈がどんなに掬っても掬えなくて、捉えなかった。元から日焼けをしても黒くならない皮膚は数日も太陽光に触れないせいで、まるで純白の壁と床と同化するように白い。夏朦は温奈の座ったテーブルの前を通り、温奈は起きて夏朦を座らせようとしたが、夏朦は首を振ってそれを拒んだ。
何か食べたいものはないかって聞こうとした矢先に、温奈が口を開く前に、日に日に薄くなっているその人は温奈から離れて、ふらふらと植物エリアまで行って、じょうろを持って植物に水をあげた。
自分のことより、夏朦は植物のほうが気にかけている。
温奈は時々ある意味わがままと言える夏朦に怒りたい。夏朦は植物ばっか気にして、温奈がどんなに精神を削って夏朦に元気になって欲しいのか気付いていないから。
夏朦が数日前の明るい姿に戻ってほしいというわけではない。無理に笑わなくても大丈夫。温奈はただ、前の悲しみに浸りやすくても頑張って生きようとする夏朦に取り戻したいだけ。
温奈はもう自分を傷つけないと約束したではないかってすごく夏朦に聞きたい。今のように拒食し、飢えで自分を罰するような行為はどういうことだ?そのような行動は温奈を苦しめているのを、夏朦はちっともわからないのか?
夏朦の後ろ姿を見つめて、温奈はサンドイッチをキッチンに戻し、夏朦専用のコップにコーヒーを淹れた。それに蜂蜜とミルクを入れて、タンポポと茶靡と面と向かって屈んでいる夏朦のほうに歩いた。
「少しぐらい飲んで?」温奈は歎願するような声で聞く。
夏朦は手に持っているじょうろを床に置いた。コップを受け取って暫く経ち、やっと口に近付いて一口を啜った。でもコップはすぐに夏朦の口から離れた。まるで一枚の薄い皮だけが骨を包んだような痩せ細い腕には、コップを持つことすら負担のようだ。でも温奈はそれを受け取る気がなかった。そのコップが夏朦の手から離れば、夏朦の口に入れる回数はゼロまで減らされるから。
「タンポポ、生えてきたね」夏朦はすごく軽い声で言った。
その声は呟いているように細いから、温奈は植物の声でも聞こえたのかと錯覚しそうな感じがした。
「時間が経てばまた花が咲くのさ。彼女を待ってあげて」
「でもその前に彼女たちにさよならを言わないと」
夏朦が口にした『彼女たち』とは、その可愛い白い毛玉たちのことだ。
「彼女たちはただ旅に出るだけだ。遠い地方まで飛んでまた根を張り、そしてたくさん、たくさんのタンポポが生えるんだ」と温奈は答えた。
「奈、もし彼女たちが水に落ちたらどうする?もし強風に土のない場所に飛ばされたらどうする?もし太陽の光も雨水も届かない場所に……」
「心配しないで、風は彼女たちを一番育ちやすい地へ連れて行くから」
「でも運命の女神の筆は止まらない。もしかしたら女神はすでに彼女たちの終止符を描いた……」
温奈は過去に戻って運命の女神なんて馬鹿馬鹿しい比喩を言った自分を止めたい。残念ながら時間は逆方向に流れない。温奈はその時に言った冗談の責任を取り、過去、現在、未来の自分の代わりに彼女の女神を宥めるしかない。
「あなたは最初に反抗に成功した人だ。あなたの祝福があれば、彼女たちは元気に成長するから、彼女たちを信じないと」
「本当かな……」
夏朦はやっと温奈を見てくれた。虚ろだった瞳に小さな希望の光を灯した。例え蝋燭の火のように儚くても、これはすでに大きな進歩である。
「本当さ」温奈は強く頷いて、根拠のない保証をした。何の根拠もないが、温奈は本気で夏朦の祝福さえあれば、すべての植物は幸せになれると信じている。「だから一緒に彼女たちを見送ろう?」
返事はなく、頷きもしなくて、夏朦は両手を伸ばして植木鉢を持ち上げた。温奈は急いで前へ行きドアを開けて、夏朦が上手く店から出られるようにした。
温かい太陽の光は大地を照らして、光に怯えた夏朦は入り口で少し躊躇って、やっと店内と室外の交差線を跨いで光を浴びた。完璧と呼べるうなじの持ち主は青空を見上げた。ちょうど一陣の風が吹き、光の中で淡い金色のような長い髪は揺らぎ、タンポポの種たちを空へと連れ去った。
「あっ」
夏朦は驚いて小さい声を出した。俯いて懐の盆栽を見て、そしてどんどん高くへ飛んで行く小さな種たちを見て、すぐ両手を上げて、残ったタンポポの種たちにも上手く風に乗せ、他の仲間と一緒に旅立てるようにした。
風は小さなパラシュートたちを連れて回りまわっている。温奈は彼女たちの声が聞こえないが、彼女たちのこんなにも高ぶる気持ちを持って、期待と祝福を連れて未知な旅路へ旅立ったように感じた。この旅路はそううまくはならないことを知っている。それでも空を自由に飛べる彼女たちは希望に満ちている。風が彼女たちをもっと高く、もっと遠いところへ連れていくことをまるで恐れていない。
温奈は振り向いて夏朦を見た。透明の涙は温奈の予想通り流れていてる、反射する太陽光でキラキラしている。夏朦は夢中に遠さがってゆくタンポポの種たちを見ている。涙を流していても、その口角は浅く浅く、気付くことすらできない角度でを上げた。
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