第38話 そして風が言葉もなく吹き抜けた
これ以上本当にないか。もっと良くならないのか。
限界まで脳内で格闘する。ひたすら部屋で作詞・作曲し、親がいないタイミングを見計らってレコーディング。歌がおかしいのか。演奏がまずいのか。音質が悪いか。そもそもこれギター一本で表現できる曲なのか。
近づいてくる現実から逃走するように、パチンコ屋で憂さ晴らしする。そして家に戻って曲作り。またパチンコ。次第に、大当たりしたときの快感や、負けた分を取り返すと、どちらがメインで、どちらが憂さ晴らしか、分からなくなっていく。
僕が時間とお金を浪費し続ける中、父は3月に定年退職を迎えた。
花束を抱えて帰ってきた父を労い、ささやかなホーム・パーティーを開いた。父は、「そのうち家をリフォームしよう」と言った。
この家が出来て越してきたのは、僕が中2のときだから12年目になる。リフォームは、1階を中心にリビングや玄関を広くし、フローリングや壁を新しく張り替えた。キッチンやトイレなど水回りも一新する。
家の工事が進む5月、父にとっては初となる孫が産まれた。兄夫婦はなかなか子宝に恵まれなかったが、元気な女の子を出産した。
父も大いに喜んだが、女の子を育てたことがないから「オムツを変えるときあれがついてないから、なんだかドキッとするな」と変なことを言っていた。
定年早々、孫もできて、もう少しゆっくりすればいいのに、「そろそろなにか仕事を始めるか」と父は言い出した。団塊の世代は家でじっとしていることができないらしい。父は昔から畑を一区画借りて自家農園をしていたから、畑仕事をすることにした。
ある日の夜、寝ていたはずの父が「なんか全身に力入らなくなっちゃって」と二階から降りてきた。リビングにいた僕は「大丈夫かよ」と言いながらうつ伏せになる父を母と二人でマッサージした。
「仕事も始めるんでしょ?大丈夫なん」
「んー…」
「明日もゴルフ? やめとけば?」
「んー…。まあ…とりあえず大丈夫そうだ」
と言って二階に戻った。
翌日、父は退屈そうにリビングで過ごしていた。今日はゴルフも行かず酒も飲まず、家にいるとのこと。
6月。父の仕事初日。久しぶりに母が作った弁当を持って、体調もすっかり良くなった父は元気に出かけていった。この日はリフォームの最終日で、父が帰ってくる頃には床を保護していたカバーが全面外され、新しいフローリングとご対面だ。
「最後の挑戦」と銘打った僕のアルバムの完成も近づいてきた。楽曲は弾き語りスタイルのものが中心だが、ギターやコーラスを重ねるような曲も作った。
いよいよなにかが終わる気がした。これを作り終えたら俺はどうなる。夢は終わりだ。
怖くなった僕が逃げる先は、決まってパチンコ屋だ。
母から電話があった。熱中症かなにか分からないが、父が初日早々畑で倒れ病院に運ばれたらしいから帰ってきてとのことだった。僕は家の車で来ていたからすぐに店を出て家に戻り、そのまま母と病院へ向かった。
父が運ばれた病院は、駐車場が入口から少し離れたところにあったので、先に入口付近で母を降ろし、僕は駐車場に停めてから向かった。
来たことがない病院だったので勝手がわからず、受付で場所を聞いて病室へ向かった。ドアを開けると母が飛び込んで来て
「お父さん死んじゃった!」
と泣きながら僕に抱きついてきた。
え?
その小さな部屋はストレッチャーが一台あり、その上に父は仰向けで寝ていた。申し訳なさそうな顔をした医師が3人立っていて、奥から陽が差し込んでいた。
陽の光はポカンと口を開けた父の顔を照らしていた。眼鏡にヒビが入り、鼻のあたりに血が滲んでいる。
「…これ、もうどうにもならないんですか」
「はい…」
医師はその後なにかを説明してくれたが、頭に入ってこなかった。
父の遺体を指さして「これ」と言っている自分だけは認識できた。
目の前にいる父は、間違いなく僕の父だ。しかし、死んでいるという事実が把握できない。今朝見送った人と同じ人だという認識ができない。
出ていくとき元気で。なんで。心臓マッサージとか。でも。この間力が入らなくなったとか。どうして。今日キレイになったフローリングが。この間孫が産まれたばっかりで。
脳と身体と言葉がまとまらない。声が出せない。
畑で作業中、父は突然倒れたという。眼鏡はそのとき割れたのだろう。
心筋梗塞だった。
地下の霊安室に父を運ぶ間、僕は駐車場に出て、特に近しい親戚に電話をかけていった。父の死を伝えなければならない。この仕事を母にやらせるわけにもいかない。
父の死を言語化し、声に出す。その自分の声が耳から入ってくる。それを繰り返していくうちに、父の死を頭が理解していく。
「なんで!?この間来たばっかだよ!? 嘘って言ってよまあちゃん!」
エミコさんが電話の向こうでかなり取り乱している様子が分かった。夫のテラダさんが電話を代わり、
「ごめんねまーくん。ちょっとエミコ今動転しちゃってるから。それで…」
冷静に僕に話す向こうで、エミコさんの泣き声がまだ聞こえていた。
僕はエミコさんの真っ直ぐな号泣で、父の死を完全に理解した。その電話を切ったあと、信じられないくらいの量の涙が溢れ出た。
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