第6話 あらゆる冒険の登場人物にあこがれて
ブルーハーツが結成された1985年は、視聴率100%男としてバラエティの金字塔を打ち立てた萩本欽一が、休養のため全てのレギュラー番組を降板した年でもあった。
やがて『ひょうきん族』と『ドリフターズ』が土曜8時台で争う“土8戦争”を繰り広げたが、当時の僕の真ん中には、とんねるずがいた。
とんねるずの笑いは、その場にある全ての人・モノを使って笑いに変える空間芸であり、全体芸。そのため学校と親和性が高く、なにかを模倣したり再現する能力が人より少しだけ長けていた僕は、とんねるずの真似をすることで目立つことができた。
ジャッキー・チェンの映画が放送されれば翌日みんながジャッキーになるように、再現したいという思いと目立ちたいという思い、どちらが先行しているのか分からないほどに、身体が勝手に動いた。こうして僕の勘違いは進んでいった。
勉強を一切吸収しない僕のスポンジは、エンタメにのみ吸収性も速乾性も早く、六年間はあっという間に終わった。
小学校の卒業式で僕は、フタバさんという女の子と、皆勤賞で表彰された。
一日でも休んでしまうと知らない世界になってしまうという幼稚園時代のトラウマから、熱があっても登校し、どうしようもなければ早退と、丸一日完全欠席だけは避け続けた結果、皆勤賞を受賞してしまった。恐怖から逃れ続けた結果の皆勤賞。
フタバさんは細くて大人しいタイプで、どちらかというと暗い印象だったのに、中学に上がると学年一の不良少女になった。
オヘソをチラ見せする短いブレザーに、地面スレスレのスカート、ウェーブががったパーマヘアーをなびかせ、1992年当時でも退廃化しつつあったヤンキーファッションに身を包み、色っぽく見えた。
先輩の誰々ともうヤッたらしいといつも噂され、僕を含め男子たちは皆(みな)、フタバさんをエロい目で見ていた。
6−3−3制というのはよくできたもので、中学に入ると急にみんな大人になる。
制服がそうさせるのか、性の目覚めによるものなのか、頭の良さや身体の発育、エンタメの好みに至るまで、中学に入った途端違いが顕れる。
やがて、全ての求心力が「不良」に集まった。
悪いことをする者が偉い。喧嘩が強い奴がカッコいい。
授業中突然床に寝っ転がってみたり、奇声を発してみたり、扉を蹴り飛ばしてはゲラゲラ笑い、それにつられてみんなも笑う。
愛想笑いで合わせているのか、本気で笑っているのか。みんなはどっちなのか。
よく一緒に麻雀をしていた友人連中も、怖い上級生たちと付き合い出し、悪ガキから「不良」になった。女子たちはそんな連中の彼女となり、「女」になっていった。
ちょっと前までアイドルだの王子様だの言っておいて、今度は不良か。お前らの美的感覚はどうなっているのか。
僕は途端に発言の場を失った。六年間当たり前のようにやってきたテレビの再現も共遊も、もうできない。
不良にも真面目にもなれない僕のスポンジは、どんどん浸水していった。誰かとエンタメを分かち合えないことが、こんなにも苦痛なのか。永遠に続く便秘のよう。食べても食べても出せない。
そんな僕をよそに、成熟しつつあったテレビはいよいよ隆盛を極めていく。
お笑いBIG3に限らず、ドリフも現役、志村けんも大活躍する中、上岡龍太郎も東京で活動開始。そして『ダウンタウンのごっつええ感じ』が始まると、のちに「お笑い第三世代」と呼ばれるスターらによる、熾烈なお笑い大戦争が始まった。
松村邦洋・松本明子によるアポなし突撃番組『電波少年』や、『ボキャブラ天国』からは爆笑問題、『とぶくすり』からはナインティナインと、新しい風もどんどん吹き込んでくる。
光GENJIのような輝かしさを放てなかったアイドルSMAPが、バラエティに進出し始めたのもこの頃だ。
アイドルをどこか下に見ていたはずの僕は、SMAPには惹かれた。男子がアイドルに抱く「そんなわけないじゃん」に対し、彼らは「うん、そんなわけないんだよ」と返すように、泥まみれになったり、下ネタを言ったり、アイドル像をどんどん壊していった。
ドラマでは、当時天才モードの中にいた脚本家・野島伸司が、社会が黙殺しているようなことを真正面から描いてみせた。
『高校教師』は教師と生徒の禁断の恋に限らず、同性愛、レイプ、近親相姦、『人間・失格』では、いじめで自殺した子の父親による壮絶な復讐劇。このドラマの主演は僕と同い年のKinKi Kidsで、同年代からスターが現れた最初の瞬間。
他にも、『家なき子』では家庭内暴力と貧困、『聖者の行進』では障害者への暴力、虐待を描いて苦情が殺到し、スポンサーも降板する事態にまで至ったが、このドラマは、実際に起きた事件が基になっていた。
バブルが崩壊し、のちに「失われた30年」と言われる時代に突入するこのとき、野島伸司は今なお続く問題を予見していたかのような題材を、次々と視聴者に突きつけていた。
中学生になり見聞が広がったこともあってか、とにかくテレビが面白くて仕方がなかった。
土曜日は情報収集日で、夕方は中山秀征の『TVおじゃマンボウ』で視聴率ランキングをチェックし、一週間の答え合わせに入る。
自分が面白いと思ったものを、世間はどう捉えているのか。そして、まだ自分が知らない面白い番組があるのではないか。
深夜は『カウントダウンTV』でCDチャートをチェックする。CHAGE and ASKAの『SAY YES』や、米米CLUBの『君がいるだけで』、浜田省吾『悲しみは雪のように』など、ドラマの影響力が強かったこの時代は、主題歌からヒットが生まれやすかった。
中島みゆきは、このあたりから映像をより際立たせる驚異的な表現力を見せた。『家なき子』には、安達ゆみ演じるすずに、いつも優しく寄り添う愛犬リュウ目線で『空と君のあいだに』を書き下ろし、自身最大のヒットとなった。
フリッパーズギターやピチカート5、スチャダラパーなどによる渋谷系も、一応お隣ではある埼玉県にも漏れ伝わってはいたけど、埼玉県民の東京デビューはたいてい池袋か上野につき、ニアミス。
上尾市にもカラオケボックスが登場し、コンテナのように並べられた個室に入り、一曲100円入れて、緊張しながら歌った。やがてカード購入制になり、歌い放題になると大ブームとなり、一気に広がった。
そして小室哲哉を始めとする、歌いやすく、みんなで盛り上がれる曲がヒットチャートを席巻していく。
新たな才能が次々と現れる一方で、まだテレビの中には、植木等も立川談志も、内田裕也も勝新太郎も、梅宮辰夫も山城新伍もおすぎとピーコも飯島愛もいる、美しきカオスだった。
映画監督、作家、評論家、プロレスラー、メダリスト、肩書きやジャンルにこだわらず、どんな人でもテレビにいた。
そのため、一(・)色(・)にならなかった。
テレビしかないから、そこから流れてくるものが全てになってしまう危険性を孕みながら、白で埋め尽くされそうになると必ず黒でカウンターを撃つものが現れ、隣には赤、反対には青、黄色も茶色もピンクも、あらゆる価値観がテレビの中に同居していた。
この時代のテレビは、「どうだ! 面白いだろ!」と叩きつけてくる力強さがあった。床に落としたポテトチップスでも「3秒ルール」といって平気で食べていたように、僕らはどんなエンタメでも飲み込んだ。
子どもには悪影響な不謹慎ウィルスもきっとあった。
でも、「これ以上はテレビでもやらない」という、絶(・)対(・)に(・)食(・)べ(・)て(・)は(・)い(・)け(・)な(・)い(・)も(・)の(・)の基準も教わった。
副作用が出たものもいたかもしれないけど、僕らはそうして体内に抗体をつくり、免疫力をつけていった。
それがいつしか、真似すべき模範生しか出られない上品なメディアに、テレビは変わった。
わずかな菌さえ触れさせないよう、徹底的に除菌された無菌エンタメしか流さなくなった。あれだけ力強かったテレビが「みなさん、これなら良いですよね?」と歩み寄る。
中山秀征、松本明子、飯島直子らによる街ブラ番組『DAISUKI!』は、「ただ遊んでるだけ」「バラエティーを舐めてる」と当時は揶揄されたが、のちのテレビはこのフォーマットに傾倒していく。
清濁併せ呑ませるべきか、清だけ呑ませるべきなのか、どちらがいいかは分からない。
年末年始の特番シーズンでは、そんな、モンスターみたいな当時の芸能人たちが一堂に介する番組が多いため、友達に録画をお願いして回るのが僕の恒例行事だった。
ビデオデッキは家に一台しかないし、一番組だけの録画ではとても事足りない。
家では、父がいるとテレビはプロ野球中継で占拠されるので、リビングのビデオ録画を回しながら、隣の和室で旧式のテレビに一人かじりつく。兄も母もスポーツ観戦が好きだったから、「入ったー!」とか「下手くそー!」と聞こえてくる隣で、とんねるずやウッチャンナンチャン、ダウンタウンを見て爆笑する日々。
それを共有できる場が減っていったストレスは、やがて僕を一つの方向へ導いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます