第36話 48億の個人的な憂鬱 8
人は本当に死ぬ。
とうの昔に理解できていたことを、大人になってもう一度理解した。
さっきまで生きていて、そこで眠っていた人が、今は亡くなっている。
でもまだそこにいる。
いるけど死んでいる。
もういない。
でもいる。
この一部始終を話で聞いていたら、もう少し違ったのかもしれない。
でも全てを目の当たりにしたことで、人が死ぬという当たり前を改めて痛感した。
テラダ家が車に乗り込む直前、おばあちゃんは旅立った。
この日は土曜日。
なるべくみんなに迷惑をかけないよう、このタイミングで逝ったんだろうと父とエミコさんが話す声が聞こえた。
兄が到着し、これからの持久戦に備え始めたところでの急転直下。確かにそんな気もした。
また、車椅子のおじいちゃんを車に乗せるのにわずかに手間取ったことが、最期の瞬間に立ち会えた要因でもあった。
もしスムーズに乗せられていたらとっくに車は出ていて、電話で呼び戻してもおそらく間に合わなかっただろう。
みんなへの影響を最小限に留めて旅立った。
しかし、死ぬときまで誰かの迷惑を考えなければならないのかとも思った。
死ぬときこそ考えるべきなのだろうか。
生きてるとき散々迷惑かけたから? 死ぬときくらいは人に迷惑をかけず?
生きてる人なんて、多かれ少なかれみんな誰かに迷惑をかけているんじゃないのか。
僕は誰かの役に立てているのだろうか。そもそも、役に立ちたいと思っているのか。
自分がチヤホヤしてほしいだけじゃないのか。
誰かを救いたいからじゃなくて、自分が目立ちたいために歌いたいんじゃないのか。
でもみんなそんなものじゃないだろうか。地球にとっては人類そのものが迷惑だ。地球がその重みに耐えかねて軋んでる。
病院を出ると、雲ひとつない青空が無責任に晴れ渡っていた。12月には珍しい台風一過の空気は、嫌味なほど清々しかった。
僕らはそのままおばあちゃんの家に移動し、葬儀屋さんとの打ち合わせに入った。
霊柩車のグレード、戒名のグレード、その選択の一つ一つで金額が変わることも初めて知った。
人が死んだ直後にここまで現実と直面するものなのかと僕が驚いていると、「だから良いんだ」と帰りの車で兄が言った。
悲しむ暇を与えないほど、やることがあるから正気を保っていられる。
エミコさんに至っては、今警察で取り調べを受けているという。投与していた薬に間違いはなかったかなど、この死に事件性がないかと疑われるのだ。
もちろん形式的なもので警察も本気で疑いはしないだろうが、実母の死の直後に取り調べを受ける心労は、計り知れない。
葬儀の打ち合わせが長引きそうだから先に帰っててくれということになり、僕は兄の車で一足先に帰った。
兄は家族があるし仕事もあるが、僕の急務はラブの散歩。
ゴロは、僕が19歳のときに大往生した。
その悲しみから、もう犬は飼いたくないと思っていたのに、犬好きの父がラブラドール・レトリーバーをどこかの知り合いからもらってきた。
名前は「ラブ」と父がつけた。ゴロのときといい、いつも名前が適当だ。
兄に家まで送ってもらうと、その気配に気づいたラブが気が触れたように喚き散らした。
朝からみんないないしどこ行ってたの!と暴れ狂うラブの首根っこをつかみ、抑えつけるように散歩用のリードを繋ぐ。
昔は小さかったのに、5年経ってすっかり成犬。とんでもない力で引っ張られながら、僕は近所の公園にラブと出かけた。
使い古して汚れたiPod miniをシャッフル再生する。
エレカシの『友達がいるのさ』が流れた。2004年にリリースされた、EMI時代最後のシングル。
この時代エレカシは、打ち込みを取り入れてみたり、小林武史にプロデュースを依頼したりと、解放と制限を繰り返しながらもがいていた。
少し前に、その模様を収めたドキュメンタリーフィルム『扉の向こう』をクマと渋谷の映画館に観に行った。監督は、のちに日本映画界のトップに上り詰める是枝裕和。
内容は、テレビの深夜放送で流れていたものとほぼ同じだったから、開始早々「まったく同じじゃん、これ……」と2人でボヤいた。
ラブの勢いは収まることなく、今日はこんなもんじゃ済まさないぞ!と強い力で僕の腕を引っ張った。
ほどなくして、iPodから聴き慣れない曲が流れてきた。
そしてある一節で僕は立ち止まった。
「青い空は無責任」
おばあちゃんが旅立ったあと、病院を出て最初に見た空。
そのとき僕が抱いた感情が、吉井和哉の声で運ばれてきた。
イエローモンキーの『人生の終わり (FOR GRANDMOTHER)』という曲で、吉井和哉が祖母を想って綴った歌だった。
エンターテインメントは、食欲と違って、飢えや渇きを教えてくれない。今自分がなにを求めているのか分からない。“それ”と出会ったあと初めて“それ”を欲していたと知る。
自分のテーマソングのように寄り添ってくれる歌がいつもあった。このときはイエモンのその曲が、身内の死と初めて向き合う僕の心を慰めてくれた。
そろそろ行くよーとラブに引っ張られ、僕はまた散歩を続けた。
葬式では、孫の僕らが受付を担当することになった。
準備をしていると、父が会社の同僚と話しながらこちらへやって来た。
「今日は本当にありがとうな。バタバタさせちゃって」
「いやいや」
「おいみんな。こちら同僚のナカヤマさん。なにか分からないことがあったらこの男になんでも聞いて。この男は冠婚葬祭のプロだから」
ナカヤマさんは父と同い年で、白髪で小太りの、優しそうな男性だった。初対面でも接しやすい雰囲気の人で、数多の経験を積んできたであろうバックボーンも垣間見えた。
父は僕からすればたった一人の父だが、外から見ればこのナカヤマさん同様、社会経験豊富な男の一人になるのだろう。父もまた、同僚の誰かの冠婚葬祭を取り仕切ったことがあるのかもしれない。自分もいつか、こんなように振る舞えるのだろうか。
「しかしまあくん、大きくなったね。昔一緒に麻雀やったの覚えてる?」
初対面じゃなかった。あの場にいたのか。
やがてスーツ姿の大人たちが次々と現れた。
バリバリ仕事をこなしてそうな若き企業戦士たちが、父に深々と会釈をしながら入ってきた。
無職の僕にはとてもじゃないが、直視できなかった。
通夜の席では、おばあちゃんの姉妹の娘のはとこのぴーよこちゃんと、誰が誰だか理解が追いつかぬまま僕と兄は父に連れられ、あちこちの席で挨拶を続けた。
予想していたことだけど、お馴染みのムードになった。
お兄さんは体育教師? もうご結婚もされて。立派ねえ。
えーと弟さんは……
僕の親族は、父方母方ともに公務員とか銀行員とか、エリートばかり。
一人くらいフラフラしたのがいてくれれば、まあそういう奴もいるよね的分散もできたのに、見事に、ちゃんとした人しかいない。当然浮く。
この年になれば、自分が社会の中でどういう位置付けなのか、嫌でもわかる。
ご両親とお兄さんがしっかりしてるから、あの弟はさぞ甘やかされてああなったんでしょう。
まあ一人くらい、出来損ないはどこの家庭にもいるわけで。
会場は、そんな思いで満場一致してるように僕には見えた。
こういうとき、僕は必ず「今に見てろ」と思う。
必ず引っくり返してやる。近いうち、必ずや俺をテレビで見ることになるだろう。
しかし、そんな気力はもうなかった。
この人たちは労せず「ちゃんとした大人」になったでのはなく、努力して今があるのだ。
「ちゃんとした大人」からすれば、ミュージシャンといった稼業など結果が全て。
どれくらい努力してるかなんて関係ない。ダイエットと同じ。
痩せるために頑張っているのか、痩せたのか。
頑張っているだけなら、何とでも言える。
痩せてはじめて「頑張っていたんだね」と言われる。
弱気になると、物分かりが良くなる。
物分かりが良くなったから、弱気になってきたのか。
もうどちらでもいい。
しかし数年後、本当にこの人たちは僕をテレビで見ることになる。
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