第35話 48億の個人的な憂鬱8
病院に着いたときは土砂降りだった。
車を停めるなり僕は「ちょっと先行ってて、おしっこ」と両親に告げると返事も待たず車から飛び出し、駐車場の隅にある木の下で放尿した。
おばあちゃんごめん。この時間のせいで最後会えないかもしれない。でも、あなたの息子は今そちらへ向かいました。病院の皆様ごめんなさい。中にお手洗いもあるでしょうが、僕の息子がもう限界でした。
早く中に入りたいけど、この小便が全く終わる気配がない。この大雨に負けないくらい滝のように出続ける。
意識が遠くなる程我慢の限界だった。我慢の限界というのをおくびにも出さずに堪え続けるのは苦行であったが、なんとかここまで辿り着いた。
なんでいつも決まらないんだろう。なんでもいつもこうなんだ。兄の結婚式では痔が出るし、祖母の危篤にこの有様。とてもミュージシャンになる星に生まれた男とは思えない。
全てを出し切った決まらない男は、やや脱力しながら病院の入り口に小走りで向かい、受付でおばあちゃんの病室を訪ねた。
病室にはエミコさん家族と、車椅子のおじいちゃんがいた。
おばあちゃんは少し落ち着いたようだったが、まだまだ予断を許さない状態だと言う。
「いつも通り薬は飲んでいたんだけれど」「先生が言うには」「まあちゃんが電話に出てくれて」「凄い雨が」
今に至るまでの共有が一通りなされると、世間話を少し挟む程度の余裕が生まれ、このあとどうするかの、リアル家族会議に入った。朝食を買ってくる組、おばあちゃんの家に着替えを取りに帰る組、病院待機組の3つに分けられた。
朝食は母とエミコさんらが、おばあちゃんの家には僕とリカちゃんが、父ほか残りは待機組となった。
ここまで何の役にも立っていない僕は、今度こそと運転手を名乗り出た。エミコ叔母さんの娘で、僕より4つ上のリカちゃんが、「台風来てるし運転怖いから助かる…」と言うと、急に僕は背筋を伸ばし、父から鍵を預かると「じゃあ行ってくる」と男らしく振る舞いながら颯爽と病室をあとにした。今度こそ俺の出番だ。
朝の5時。まだ外は暗く、雨風が強い。僕はリカちゃんに道を教わりながら、慎重におばあちゃんの家に向かった。毎年正月に来てはいるが、病院から家までの道順は分からない。
「少し寝てなー」
おばあちゃんの家に着くと、リカちゃんは台所で朝食の準備を始めた。
うちの家族4人、エミコさん家族4人、そしておじいちゃんとおばあちゃんの計8人で毎年正月に団らんするこの空間に一人でいると、見慣れた部屋が妙に広く感じた。
なにかあれば電話が来るし、急ぐ必要はないから少し休んで来いということだった。奥でから聞こえてくる包丁がまな板を叩く音。お湯が沸く音。暖房が切り替わる音。静かな朝方に聞こえてくるそんな小さな環境音たちが、あっさりと僕を眠りへ誘った。
「パーッて作ったからおいしいか分からないけど」
リカちゃんがご飯とお味噌汁とお新香をお盆に乗せて運んできた。その声で目を覚ました僕は、なぜか寝ていないフリを装いながら起き上がり、食事に箸をつけた。
「昔俺、ここでギター弾いたよね」
「おばあちゃんも喜んでたね。でも、もっと小さい頃はここで手品もしてたよ」
「あー、やった。ミスターノリックが流行ってたからね」
「おもしろかったよねー」
人が集まると目立ちたくなる。それは親族の集まりでも同じ。大人になった今、そんな性分を仕事に変えるため真剣に努力している。
努力?
今なにしてるんだお前は。真剣に向き合ったのはさっき小便我慢することくらいだろう。
「まあちゃんって今なにしてるの?」
帰りの車で、聞かれたくない質問が来た。
「…うん、あの、この間仕事辞めちゃって。今…転職期間中」
気持ち良すぎる台風一過の青空が、急に嫌になった。行きの車ではよく見えなかった夜の景色が、朝日によって克明に照らし出されている。
小学生のときの手品。高校生の頃のギター。
俺を見てくれ! とばかりに、さっき朝食を食べたところで披露した。
今は、ぼんやり見てほしい。くっきり見ないでください。しかし、この突き抜けた青空と太陽は、なにもかもを白日の下に晒すようだった。
病院に着くと、兄の姿が見えた。自分がコーチを務める部活の合宿から一日早く帰ってきたらしい。
9時。テラダ家は夜からずっと病院にいて一睡もしてないから、いったん帰ってもらい、そのあと我々が帰り、夜に父がまた来て、明日の朝まで付き添う。とりあえず誰かしらは病院にいる状態にして、交代で休もうということになった。
こういうのは長期戦になる可能性があるし、付き添いでこっちの身体が壊れちゃうこともあるからと、交代制導入。
じゃあ、と言ってテラダ家が出ていくと、病室の空気が少し変わった。この病室で改めて鷺谷家4人だけになると、妙な雰囲気になった。
さて、コンビニでも行くか。マックでも行くか。タバコでも吸ってくるか。少しベンチで横にでもなるか。
各々が時間の潰し方を考え始めた。
そのときだった。
急に容態が急変したのか、おばあちゃんは苦悶の表情になり、そこら中の機器からピーピーピーと聞いたこともないような音が聞こえてきた。
「どぅど、ど、どうすんだよこれ」
と言って兄はナースコールと思われるボタンを押すとおばあちゃんに心臓マッサージを始めた。さすが体育教師。
これドラマで何度も見たやつだ。まずい。僕は病室を飛び出し階段を駆け下り外に出ると、ちょうど車に乗り込もうとしているテラダ家に大声で叫んだ。
「戻って!」
大声で叫ぶ僕の表情を見て全員が青ざめた。おばあちゃんに何かあったのだと察した。
「早く戻って!」
「だっておじいちゃんいるもん!」
おじいちゃんの車椅子を押すリカちゃんが、僕に強く抗議して我に返った。
そうだ。なにやってんだ俺は。伝えることが役目じゃないだろこの無能。ここにいるみんなを病室に連れていくことがお前の役目だろ。本当クソの役にも立たないクソニートが。おじいちゃんの姿が見えてないのかお前には。そんな使えない目玉なら捨ててしまえ。
「俺がちゃんと連れていくから。だから早く向かって」
僕は車椅子を半ば強引に奪った。でもリカちゃんは、扱い慣れてない僕の車椅子捌きが心配で、結局一緒についてきた。どこまでも決まらない男。
おばあちゃんがいる3階のエレベーターに着くと、
「もうここからは本当大丈夫だから、リカちゃんマジで先病室行って」
「うん」
そう言って、リカちゃんも病室へと走った。
おじいちゃんの車椅子を押しながら病室に入ると、白衣を着た医師と看護師を囲むように、全員がおばあちゃんに話しかけていた。
「おばあちゃん!しっかり!」
「いつも悪態ついてくるあの威勢はどうしたの!帰ってきてよ!」
わーーーー
ムリムリムリムリ
やめてくれやめてくれやめてくれ
ドラマのまんまじゃん。本当にこんなことになるの。おばあちゃん死ぬの? このあと死ぬの? 待って待って待って待って。
ついさっきまで普通の病室だったこの空間に、全く違う感情が津波のように流れ込んでくる。その勢いに圧倒され僕の感情は迷子になった。怖いのか。悲しいのか。もうよく分からない。そのとき、おじいちゃんが、車椅子から聞いたことのないような声量で叫んだ。
「しっかりしろおらあ! みんな来てくれてんだろ! 起きろ、おい!!」
いつも無口なおじいちゃん。
お喋りで、口が悪くて、しわくちゃの顔で笑うおばあちゃんの隣で、どこかオドオドしてるようにも見える、静かで、穏やかなおじいちゃんが、聞いたこともないような大声で叫んだ。
それはとても低く、深く、地響きみたいな怒声だった。でも、おばあちゃんは再び目を開くことはなかった。
やがて医師が腕時計に目をやり
「ご臨終です」
と告げると
「そうですか」
と涙に詰まりながら返す父を見て、僕は堪えてた涙が一気に溢れた。
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