第34話 48億の個人的な憂鬱 6

12月にしては珍しい、台風が接近してくる夜だった。


翌定年を前に、埼玉に戻ってくる機会も増えてきていた父も寝静まった金曜の深夜、家の電話が鳴った。


こんな時間に電話が鳴ることはまずない。


僕は両親が起きないように素早く自分の部屋から飛び出し、一階の電話を取った。


「はい、サギタニですが」


「あ、まあちゃん?」


「ん、マサアキですけど」


「ああ、良かった。まあちゃん。テラダですけど。ごめんね遅くに。寝てた?」


父の妹のエミコ叔母さんだった。


「ううん、起きてた。どうしたの?」


「おばあちゃんが具合悪くなっちゃって、今病院に救急車で連れてきたの。で、もしかしたら危ないかもしれないって先生に言われて。それで、こんな時間だからどうしようかと思ったんだけど、一応アニキにもって思って」


「…わかった。とりあえず二人に伝えるね」


電話を切ってそっと二階の寝室に入ると、すぐに父がなにかを察したようにムクリとベッドから半身を起こした。すると、母もほぼ同じタイミングで起き上がった。


「どうした」


「エミコさん。おばあちゃん危ないって」


「…そうか」


この頃おばあちゃんは入退院を繰り返していたから、父はすぐに状況を理解したようだった。


ベッドから出てメガネをかけると、寝間着姿のまま一階に下り、エミコさんに電話を折り返していた。


「じゃ行こう。着替える」


父はすぐに着替えを探した。母も素早く身支度を始めた。


「お前も行けるか」


「うん」


来た。


なんの役にも立たない25歳。元気な無職ニート。


ここは俺の出番だ。


僕は大急ぎで支度を済ませると、すでに玄関で靴を履こうとしている父に階段を下りながら声をかけた。


「俺運転するよ」


「いや、いい」


「だってさっきまで寝てて起きたばっかじゃん。危ないよ。本当に運転するから」


「大丈夫。行くぞ」


急いでるときの父はいつも不機嫌だが、このときは異常なほど冷静だった。


不機嫌そうなところを説得するため強い気持ちで運転手を名乗り出たものの、思いのほか冷静に諭されてしまったので、なにも言い返せなくなってしまった。


助手席に母が乗り、僕は後ろに乗り込んだ。


兄とは連絡がつかなかった。母の話しによると部活のコーチで遠征中で、今埼玉にいないらしい。


深夜1時15分。接近中の台風が、文字通り嵐の前の静けさを醸し出していた。


エミコさんの家族はおじいちゃん、おばあちゃんと練馬に住んでいる。元日は母の実家の杉戸へ、2日は父の実家の練馬に行くのがサギタニ家の慣習。


おばあちゃんと父はどちらも口が悪く、会えばいつも口喧嘩していたが、仲が悪いようには見えなかった。これが江戸っ子というやつか。


練馬のおばあちゃんは父とワーワー罵りあったあと僕の方を見て、いつも顔をしわくしゃにして笑っていた。


上尾から練馬は高速を使って約1時間。混むと1時間半くらいかかるが、今は深夜で空いていて早い。


まだ眠気もあるのか、兄への連絡の件と、おばあちゃんの病状について軽く言葉を交わした程度で、車内はずっと静かだった。


「…もう、死んじゃってるかもしれないな」


与野インターから高速に乗ったあたりで父は突然そう呟いた。


僕は急に死が近くに感じられ、怖くなった。


正月に練馬から帰るとき、いつも姿が見えなくなるまで手を振り続けてくれてたおばあちゃん。


そのあとはカセットウォークマンに入れたブルーハーツのテープを、後部座席で爆音で聴きながら帰った。ブルーハーツは小学生の僕のどんな風景にでも現れる。


もう今この瞬間、おばあちゃんはこの世にいないのかもしれない。


そんな焦りと、高速道路に入ったという閉塞感が組み合わさってか、急に強い尿意を感じた。


家を出るとき、運転手を名乗り出た流れでトイレに寄るのを忘れてしまった。起きたばかりの父がもう出て行こうとしていたから、慌てて車に飛び乗ってしまった。


「ちょっと停めて」とは絶対に言えない。


もし今どこかのサービスエリアに寄って小便をすれば、確実に10分は遅れる。その後病院に着いたとき、「10分前に亡くなりました」と言われたら。


あの小便さえなければ、ということになる。


絶対に言えない。そう思うと尿意は益々強くなる。


気づくと、窓に水滴がつき始めていた。


この雨ならドサクサで、高速を下りたあたりで路駐してもらい、立ちションできるかもと思った。


ただ、例えそれが1分であっても文字通り命取りとなるかもしれない。やはり病院に着くまで堪えるしかない。


おばあちゃんがどうなるかは分からない。ただ今この瞬間、この尿意だけはやり過ごせ。


ただでさえ役立たずの人間が、父とおばあちゃんの最後の時間も奪うのか。


お前は何の役にも立たない男だが30分の尿意、これだけは我慢できる。できる男だ。落ち着け。落ち着けさえすればいい。


このときばかりは、いつも僕を白けさせるもう一人の自分さえ、僕に味方した。


実母との別れに間に合うか瀬戸際の父、そんな父を隣で心配する母、後ろで尿意を堪える男を乗せた車は、台風が近づく雨の中、練馬へと向かった。

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