第34話 48億の個人的な憂鬱7

12月にしては珍しい、台風が接近してくる夜だった。


翌定年を前に、少しずつ埼玉に戻ってくる機会も増えてきていた父も寝静まった金曜の深夜、家の電話が鳴った。


こんな時間に電話が鳴ることはまずない。僕は両親が起きないように素早く自分の部屋から飛び出して、一階の電話を取った。


「はい、鷺谷ですが」

「あ、まあちゃん?」

「ん、政明ですけど」

「ああ、良かった。まあちゃん。寺田ですけど。ごめんね遅くに。寝てた?」


父の妹の、エミコ叔母さんだった。


「ううん、起きてた。どうしたの?」

「おばあちゃんが具合悪くなっちゃって、今病院に救急車で連れてきたの。で、もしかしたら危ないかもしれないって先生に言われて。それで、こんな時間だからどうしようかと思ったんだけど、一応アニキにもって思って」

「…わかった。とりあえず二人に伝えるね」


電話を切って二階の寝室に入ると、すぐに父がなにかを察したようにムクリとベッドから半身を起こした。すると、母もほぼ同じタイミングで起きたようだった。


「どうした」

「エミコさん。おばあちゃん危ないって」

「…そうか」


そう言ってゆっくりとベッドから出てメガネをつけると、寝間着姿のまま一階に下りて、エミコさんに電話しているようだった。


「じゃ行こう。着替える」


父はすぐに着替えを探した。母も素早く身支度を始めた。


「お前も行けるか」

「うん」


来た。


俺の出番だ。


なんの役にも立たない25歳。元気な無職ニート。


僕は大急ぎで支度を済ませると、すでに出ていこうとしている玄関の父に、階段を下りながら声をかけた。


「俺運転するよ」

「いや、いい」

「だってさっきまで寝てて起きたばっかじゃん。危ないよ。本当に運転するから」

「大丈夫。行くぞ」


急いでるときの父はいつも不機嫌だが、このときは異常なほど冷静だった。不機嫌そうなところを説得するため強い気持ちで運転手を名乗り出たが、肩透かしを喰らうほどに冷静に諭されてしまったので、なにも言い返せなくなった。


母が助手席に乗り、僕は一人後ろに乗り込んだ。


兄とは連絡がつかなかった。母の話しによると部活のコーチで遠征中で、今埼玉にいないらしい。


深夜1時15分。接近中の台風が妙な静けさを醸し出していた。


エミコさんの家族はおじいちゃん、おばあちゃんと練馬に住んでいた。元日は母の実家の杉戸へ、2日は父の実家の練馬に行くのが生まれてから続く僕の、鷺谷家の習慣だった。


おばあちゃんと父はどちらも口が悪く、会えばいつも親子喧嘩だったが、仲が悪いようには見えなかった。これが江戸っ子というやつか。


練馬のおばあちゃんは父とワーワー罵りあったあと、僕の方を見ていつも顔をしわくしゃにして笑っていた。


2日はみんな箱根駅伝にかじりつくから、僕はすき焼きだけが楽しみだった。自家製のタレで煮込まれる練馬のすき焼きが美味しくて、大人になって料理をするようになり家でも真似て作ってみたが、なかなか練馬の味にはならなかった。


上尾から練馬は高速を使って約1時間。混むと1時間半くらいかかるが、今は深夜で空いていて早い。


「…もう、死んじゃってるかもしれないな」


与野インターから高速に乗ったあたりで、父はそう呟いた。まだ眠気もあるのか、兄への連絡の件と、おばあちゃんの病状について父と母は軽く言葉を交わした程度で、車内はずっと静かだった。しかし父がそう一言呟くと、急に死が近くに感じられて僕は怖くなった。


正月、帰るときはいつも姿が見えなくなるまで手を振り続けてくれてたおばあちゃん。もう今この瞬間、おばあちゃんはこの世にいないのかもしれない。


そんな焦りと、高速道路に入ったという閉塞感が組み合わさったのか、僕は急に強い尿意を感じた。家を出るとき、運転手を名乗り出た流れで、トイレを済ますのを忘れてしまった。起きたばかりの父がもう玄関を出ようとしていたから、慌てて車に飛び乗ってしまったのだ。


家を出てからしばらくは、父の運転が心配で、眠くなったらいつでも代わるからと格好をつけた。そして、人の「死」が近づいてきたと思った矢先に来たのが、尿意だった。


「ちょっと停めて」とは絶対に言えない。なぜなら、もし今どこかのサービスエリアに寄って小便をすれば確実に10分は遅れる。その後病院に着いたとき、「10分前に亡くなりました」と言われたらどうなる。あの小便さえなければ、ということになる。


絶対に言えない。


そう思うと尿意は益々強くなった。


気づくと、窓に水滴がつき始めていた。


この雨ならドサクサで一瞬高速を下りたあたりで路駐してもらって、立ちションできるのではと思った。ただ、例えそれが1分であっても、文字通りそれが命取りとなるかもしれない。やはり病院に着くまで堪えるしかない。


後部座席で精神統一を始める。深く深呼吸して、時を解放する。あと30分もあれば着く。30分くらいは我慢できる。焦る気持ちが尿意を強めるのであり、落ち着けばこれくらいの時間なんてことはない。


おばあちゃんがどうなるかは分からない。こればかりには天の思し召し。ただ、今この瞬間、この尿意だけはやり過ごさねばならない。ただでさえ役立たずの人間が、父とおばあちゃんの最後の瞬間をも奪う男になってたまるか。お前は何の役にも立たない男だが、30分の尿意、これだけは我慢できるだろ。落ち着け。落ち着けさえすればいい。


実母との別れに間に合うか瀬戸際の父、そんな父を隣で心配する母、後ろで尿意を堪える男を乗せた車は、台風が近づく雨の中、練馬へ向かった。

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