第43話 明日はいったい何がハヤルんだろう

1985年に現れたブルーハーツ、たまやブランキージェットシティを輩出した『三宅裕司のいかすバンド天国』通称“イカ天”により盛り上がったバンドブームは、バブル崩壊後シティ・ポップから渋谷系へと成り代わるように、フリッパーズ・ギター、ピチカート5、オリジナルラブらが活躍し、J-WAVEが生み出したJ-POPというワードと共に、avexと組んだ小室哲哉によりTK musicが日本の音楽シーンを制圧した90年代後期。


テレビとCD、全てが整ったその舞台は小室哲哉作・演出による、小室劇場だった。そして、それを破壊したのが宇多田ヒカルだ。


音楽は、文化をまるごと動かすことができるツールだった。2000年代初頭、宇多田ヒカルと共に時代を牽引していたDragonAshの降谷建志は、小室哲哉と木村拓哉と桑田佳祐を一人で内包したかのようなリード力があった。


音楽は常に“本物と偽物”で区分されてきた。産業として音楽が浸透しているどの国、どの時代においても、この区分は存在した。そのため、ヒップホップ畑に長くいた人たちにとっては、メロコアバンドによる借り物ラップで日本のヒップホップ代表を気取るDragon Ashを看過しなかった。それくらいは彼らは大きな存在だった。


降谷建志はそんなガチ勢に理解を求めるように様々なラッパーとコラボを続けたが、最終的には上から叩かれる形になった。


2002年、日本ヒップホップ界の頂点に鎮座するZeebra率いるキングギドラが、「Dragon Ashはただのパクリであり、偽物だ」と揶揄する『公開処刑』という歌をリリースした。


「死ぬか、戦うか、ビッチみたく訴えるか」という宣戦布告から始まるこの歌に対し、降谷建志はヒップホップの封印という死を選択した。日本のヒップホップ文化はそこから鈍化したと見るものもいるが、J-POPに取り入れられる程度にまでは横に伸びていった。


桑田佳祐と長渕剛もそうであったように、アーティスト同士、芸能人同士がバチバチの時代だった。やがてその主権は、無責任なSNS利用者へと手渡される不毛な時代に突入する。


パソコンやネットの普及に伴う対策として、CD-Rやパソコンにコピーさせない機能を持つ「CCCD」は、再生トラブルや音質劣化の問題をはらみ、あっという間にiTunesという黒船に一蹴された。そして2005年以降ipodとiTunesが新たな音楽概念を形成していくが、日本はここで乗り遅れてた。膨らみすぎた音楽産業の縮小に対応できず、最後まで音楽配信という文化に拒絶反応を示した。


僕がCDショップに入社した2002年、「もう少し早ければ良かったのに」と先輩によく言われた。なにもしなくてもCDが売れる時代だから給料も待遇も良く、仕事もやりやすかったと。音楽メーカに入社した2007年にも同じようなことを言われたが、このタイミングは悪くなかった。


2000年代中期は、新たな音楽が生まれにくい土壌だった。


文化と共に破壊と再生を繰り返してきた音楽は扱われ方も目まぐるしく変わり、音楽産業の売上が下降線を辿り始めると、以前のように新人を輩出することができなくなった。予算が減り、絶対に外せなくなったメジャーのA&Rやディレクターらは契約に戦々恐々となり、どんなアーティストを引き上げればいいのか分からなくなり、結果、過去に活躍したバンドの再結成画策に奔走することになった。


業界から見れば、僕がいた会社は単月黒字が命題の小さなインディーメーカーであり、メジャーのように時間と予算をかけてアーティストを育てて売ることなど、最初ハナからできない。


そこで考えたのが“カバー”という手法だった。みんながすでに知っている歌を、違うアレンジで作り変えて世間に提示する。


そうして日本の音楽業界は、カバーとアイドルで埋め尽くされていった。この時代にミリオンに到達したのは徳永英明による名曲カバー集「VOCALIST」と、その少し後に現れるAKBくらい。


アイドル文化と並走してきたニコニコ動画を中心に、総じて「ピコピコ系」とも呼ばれるハウスやテクノ、トランス系といった、主にDTMから生み出されるサウンドがソフトの進化と共に量産され始め、capsuleの中田ヤスタカがPerfumeをプロデュースし始めたのもこの頃。


バーチャル・シンガー初音ミクの登場も相まって、のちに世界規模で巻き起こるEDMブームへ繋がっていく。マッシュアップ、ミックス、カバーといった、過去の再考証と、それらをチョイスするDJ、デジタルの進化が音楽産業の中心となり、YouTubeが定着する2010年代中期まで、僕たちにインパクトを与える新たな音楽はあまり出てこなかった。


だからこそ、僕らのような小さなメーカーでも活路があった。


面白いカバーCDはタワーレコードやHMVではなく、ヴィレッジヴァンガードが発掘基地となっていた。そのため僕らは営業先をヴィレッジヴァンガードに絞り、次々と企画CDをリリースして最高20万枚ヒットを叩き出した。


そのことで僕は音楽雑誌の取材を受けることにもなったが、その数年後、会社の倒産という公開処刑を告げられることとなった。

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