第32話 48億の個人的な憂鬱 4
広島に行った。
60歳の定年退職を迎える直前、父は人生初の単身赴任を広島ですることになった。
父より一足先に退職して時間ができた僕は一人、秋の広島へ向かった。
フリーター時代から換算すると、5年間働き続けてきて初の自由時間。
曲作りのため。
一人旅。
広島。
全てが新鮮な響きで、広島の父の家で2泊3日することに抵抗を感じないほどに、羽を伸ばしたかった。そういうことがしてみたかった。
東京駅で弁当を買い、広島行きの新幹線に乗る。
平日の昼間だから自由席もガラガラで、のんびりと弁当を食べ終えるとイヤホンをつけ、流れる景色に目をやる。
すっかり洋楽漬けになっていた僕は、この頃世界的に盛り上がっていたロック・リバイバルブームに傾倒していた。ストロークス、ハイブス、リバティーンズ、マンドゥ・ディアオ。
周囲に人がいないのをいいことに、音漏れも気にせずボリュームを上げ非日常感を満喫していると、大阪駅の看板が見えた。
ここがお笑いの本拠地か。
上岡龍太郎、明石家さんま、ダウンタウン、ナインティナイン。
彼らが使う言葉は「関西弁」と一括りにされるが、京都、和歌山、兵庫、大阪と、地域によって微妙にイントネーションが違う。それくらい、テレビで聞き続けてきた関西弁。
専門学校にいたときも、新宿で働いていたときも、みんな全国津々浦々から集まって来ているはずなのに、彼らから方言を聞いたことが一度もない。
ここを降りれば本物の関西弁がそこら中で聞けるのかと思うと、ふいに飛び出してみたくなった。
父の仕事が終わる夕方過ぎに、広島に着いた。
観察するように駅周辺を眺めていると、埼玉から広島へ運ばれた我が家のマークⅡと久しぶりに対面した。
「別にわざわざ広い家借りてもな」
父が借りた部屋は洒落っ気のない、こじんまりとしたマンションだった。
整髪料やクシ、ドライヤー、胃薬、Asahiスーパードライの空き缶。家でよく見た
ビールはロング缶が増えている気がする。母の目がないのをいいことに、少し酒の量が増えているな。
軽装に着替えた父と近くの定食屋で適当に飯を済ませると、また家に戻った。
この日は木曜日。
明日は広島を一人で散策し、土曜は父に広島案内をしてもらう。そして日曜昼の便で帰る。そんな計画だった。
「寝室はお前好きに使え。俺はこっちで寝るから」
リビンクのソファは、背もたれを倒しベッドに出来る仕様で、父はそこで早々に寝た。
僕は寝室とトイレを行ったり来たりしながら、埼玉から持ってきたギターを静かに鳴らしながら、曲を書き続けた。
きっと、こういうときじゃないと書けない詞がある。
思いつかないメロディーがある。
「ええ。人生最後のチャレンジだと思いながら広島で、書いた曲なんです」
いつかそんなことをインタビューで答える日が来る。
そんなわけないだろ。
夢見る自分と、小利口になった自分が戦う。
朝起きると父の姿はなく、すでに出社した様子だった。
コンビニで買っておいたサンドイッチを頬張ると、父から預かった鍵を持って家を出た。
20分程歩いたところに広島城がある。とりあえず、近場で行けそうな観光地らしきところに行ってみる。
途中、アパレルショップの路面店が目に入った。
おしゃれな作りに目を引かれて入ってみると、あまり東京と変わらない印象を受けた。
「なにかお探しですか?」
同い年か、少し上だろうか。小綺麗な雰囲気のお兄さんが話しかけてきた。
「いや、ちょっと寄っただけでして」
「もしかして、ご旅行ですか?」
なぜ僕が広島県人ではないと分かったのだ。見た目か、言葉か、雰囲気か。観光客が多い立地だから、判別が早いのかもしれない。
見る人が見れば、僕はこの街でちょっと浮いているのかもしれないと思うと、少し怖くなった。
「いや、父がこっちで仕事してて、ちょっと」
「どちらからいらしたんですか?」
「東京です」
「東京ですかあ」
「あ、いや、東京っていうか、あの、俺は埼玉なんですけど」
「埼玉も都会ですよ。田舎でしょう、ここは」
「いや、そんなに変わらないですよ」
発作的に「東京から来た」と言っている自分がいた。
品川駅から来たから、嘘ではない。
しかし東京在住でも出身でもない。
埼玉は都会? そもそもあなた埼玉なんてよく知らないだろう。客だから適当に合わせてくれただけか。
店を出たところで僕は疑問に思った。
方言って、若い人はあまり使わないのだろうか。大阪駅の看板を見てから、方言が聞きたくてたまらなくなっていた。観光地より方言。
広島城の帰り、陽が落ち始めた駅前で、ケータイでなにか話している派手目な女子高生の姿が視界に入った。
長い金髪で顔は見えなかったが、突然街の雑踏音が消えたかのように、彼女の最後の一言だけが正確に聞こえた。
「…じゃけ、すぐ行くけん」
菅原文太の「朝日ソーラーじゃけん」というCMを咄嗟に思い出した。吉田拓郎の『唇をかみしめて』も広島弁だった。
本物の方言を聞いた途端、その土地に流れている風を浴びるように感じた。
テレビを見ているだけでは感じ取ることのできない数々が、彼女の一言でドッと押し寄せた。
急に日本が広く感じ、自分が小さく感じた。
こんな広い世界に、僕は自分の歌を届けようとしているのだ。
知らない土地へ行くと、有名になるということの凄さをいつも思い知る。
青空が広がる田園風景の中に点在する家の住人も、ベランダから海が見えるであろうマンションの住人も、みんなビートたけしを知っている。明石家さんまのことも、タモリのことも知っている。
テレビに出ているからだ。
テレビ局のカメラが捉えた映像は、電波に乗ってあらゆる家庭に届けられる。
日本全国どこに行っても、テレビに出ている人は知られている。みんながそれを見て笑ったり、怒ったり、感動したりしながら共遊して、自分の物語の登場人物になっている。
僕の人生にもブルーハーツやミッシェルと、会ったことのない登場人物は山ほどいる。
僕も誰かの人生の登場人物になれるのだろうか。どんどん現実味が薄れていく。
「今日はどこ行ってたんだ」
「広島城とか。その辺をブラブラ」
「で、曲は出来そうなのか」
「何曲か」
「そうか」
本当に何曲か出来てはいたが、それを全国に届けられるイメージが全く沸かなかった。
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